嫌な話

映画では動物愛護先進国として取り上げられたイギリスだけれど。

 年一回ケンネルクラブが主催するドッグショーで入賞した犬が、遺伝病があるにもかかわらず、交配され子犬が市場に出回っている。その事実を指摘されても、ブリーダーは罪悪感の表情を浮かべるどころか全く意に介さない。ケンネルクラブのトップはブリーダーで、近親交配したことがあることを認めたが、その事をインタビュアーに突っ込まれると、自分はすべての犬種やブリーディングについて一番知っている人間だから、他からとやかく言われたくないと一蹴。

 ローデシアン・リッジバックという犬種は、背筋に一筋のたてがみが生えているのが特徴らしいのだが、20匹に1匹の割合でたてがみがない子が生まれる。たてがみのある子には脊椎破裂や類皮嚢種などの疾患を抱えるケースが多いそうだが、リッジのない子には、これらの病気は発生しない。ところが、ブリーダーは、リッジのない子を獣医に連れて行き安楽死させるそうだ。

 「近頃の若い獣医は融通がきかなくて安楽死を拒否するので困っています。『リッジがないだけで、他はどこも悪くない』なんて言うんですね。『この犬種はリッジがないといけないの』と説明するんですけど、聞き入れてくれません。で、結局つきあいの長い獣医のところへ連れて行って安楽死させることになるんです。私の管理の下で静かに死なせたいんです。問題視して騒ぎ立てる人には任せられません。」(以上、TVのセリフをそのまま引用。コイツ呪ってやる)

 「犬のプロ」を自負する人達が、一番人間性に欠けるという皮肉な事実に愕然とした。世の中に健康な犬を出すことが、彼らの使命ではないのか?彼らにとって、たてがみがある犬を世の中に出すことと、遺伝病のない子を世の中に出すことと、どちらが自分達に課せられた社会的・倫理的・道理的な責任を果たすことになるんだろう?それどころか、健康面で問題がないのに単に犬種標準に合わないからと犬を安楽死させたり、遺伝病を知った上で交配させたり、近親交配させたり、犬種標準を変えることに反対したり。

 何様のつもりなんだ?オマエ達は!

どこの国でもこういう問題は発生する。商品としてしか見ていないんだな。
金が絡むとこんな問題も。

動物病院の獣医師が、ペットの治療費を支払わない飼い主に頭を悩ませている。会計の合間に姿を消したり、突然音信不通になったりすることも。

1週間の入院治療を終えたヨークシャーテリアを受け取った30歳前後の男性の姿が見当たらない。未払いの治療費は約10万円だ。会計にカルテを回している間に立ち去ったらしい。登録のあった電話番号に病院から電話をかけても不通。連絡先に送った請求書も戻ってきた。「電話番号も住所も虚偽でした。初めから払うつもりはなかったんでしょうね」

女性2人が交通事故に遭った猫を連れてきて治療を依頼した。「やれるだけやって」。猫は回復したが、迎えに来ない。治療費は約20万円。何度も連絡をとり、内容証明郵便も出したが、ついに音信不通に。専門の債権回収業者に頼むと、やっと分割で支払いに応じた。院長は「動物病院をボランティアと勘違いしているのでは……」。

助けたいけど金は払いたくないんですね。保険効かないし高いからな。
病院つぶれちゃうお。

犬と猫と人間と

※酷い間違いがあったので訂正し、新たなエントリとしました。「犬と猫と人間と」しろえもんと二人のインストラクター - neko73のつめとぎご指摘感謝します。



ラジオで伊集院光が映画の話をしていた。
知っているもいるだろうが、伊集院光が自分のラジオ番組で何かの評価を口にする場合、ほぼ本音のトークが聴ける。
映画のタイトルは「犬と猫と人間と」伊集院も犬を飼っているから興味があってもおかしくない。なる程動物モノか。しかしそこは伊集院光、自分が犬を飼っていることで贔屓目になるのは分かった上で差し引いて語るだろう・・・なんて思って聴いていたらどうも本気で感動したらしい。
リスナーなら百も承知だが、伊集院光はひねくれ者を自称するぐらいだからそう簡単に映画で感動などしてくれない。そのひねくれ者がどうだ、「号泣した」とか言ってるじゃないか。そりゃ一体どうしたワケだ?
そういうワケで急にこの映画が気になった私は、ユーロスペースでの公開が終わる前ギリギリに間に合うタイミングで見に行ってきた。「犬と猫と人間と」を。

映画の内容は物凄く大雑把に言えば社会派ドキュメンタリーだ。

日本の動物を取り巻く環境は悲惨と言って良い。現代の日本はペットの数が15歳未満の子供を上回るというペット大国であり、産業規模は2兆円に迫る勢いだという。そして犬の総数をイギリスと比較した場合日本がイギリスの2倍であり、その処分数は15倍になる。割合で言ったら7.5倍になるわけだ。ペット処分大国である。

このような事実に関わる以上、明るい作品になる道理が無い。この作品を観に行った人の多くがそうだと思うけれど、いくらか情報を仕入れたら大体内容の見当は付く。わざわざ重苦しい作品を観に行くのだから、なんとも言えない心持ちで映画館に足を運んだ。

しかし、違う。何がどうして違うのか。

映画の冒頭にも収められているけれど、この作品を作ることになったきっかけが良い。
いわゆる「猫おばあちゃん」であるところの稲葉恵子さんという人がいて、飯田監督が前作「あしがらさん」の舞台挨拶に訪れた下高井戸シネマで、なんと直接声をかけて映画製作を依頼したのだ。
稲葉さんはもう先が長くないと感じていたようだ。数年前に乳癌の手術をしており、転移の心配も無いとは言えない。間もなく満期を迎える生命保険があって、それを資金に充てるとか。家族の了解も得ている。
監督がそのお金を動物愛護団体に寄付した方が良いのではないかと言ったら、稲葉さんは「関わっていた団体もあるけど、信用できないところもあるから」と答えたそうだ。自分で良いのかと聞く監督に「人を見る勘は良いから」なんて言ってのける。内容はおまかせするからと言って一つだけ出した条件は「自分が生きている間に見せてくれれば良い」という約束。

そんな具合で、他に作品制作を抱えているワケでなし、自分の作品に対する報酬としては相当な多額であるし、断る理由も特に無い。ならやってみようかという意外にも軽い気持ちで始まった映画製作だった。
「なんでそんなに猫なんでしょうね?」と聞いた監督に稲葉さんは「人も好きですけど、人間よりマシみたい。動物の方が」なんて答えたのだけど、監督にはその意味が分からなかった。

これがもし動物愛護活動にどっぷり浸かったような監督で、大上段に構えて「俺が教えてやる!」という態度になるような人だったら、稲葉さんは依頼しなかっただろう。稲葉さんはきっと、みんなに考えて欲しかった。自分の頭で。その為に必要なものが何であるのか、飯田監督の作風を見て気が付いたのに違いない。
なんて、ただの偶然かも知れないけどね。

結局どんな映画になったのか、まずは予告編を観て欲しい。

長いね。4年だって。そんなに旅しなきゃいけなかったんだ。あまりにも色々なことを知って考えなければならなかったんだろう。沢山の現場が出てくる。避妊手術と堕胎をするボランティアの獣医、行政を動かした愛護団体の代表者、多摩川の猫を世話する写真家夫婦・・・「日本の犬には生まれたくない」と語るマルコ・ブルーノ氏は日本の状況にショックを受けて動物支援活動を始めたという人で、彼が「地獄」と語るのは犬の多頭飼育が崩壊した現場、通称「犬捨て山」のこと。

この映画の内容というのは、こういった問題にいくらか関心を持ったことがあれば知っている内容の繰り返しになるという部分がある。
だけどそれだけが全てじゃない。様々な現場で悲惨な状況を目の当たりにするその度に、そこで現実に立ち向かっている人達の姿も見ることになる。
「犬と猫と人間と」は文字通り犬と、猫と、そして人間の映画である。
これから印象的な場面とそこで取り上げられた問題について詳しく触れてみたいと思うのだけど、普通の映画であればネタバレというヤツだから、まだ観ていない人は注意してくださいとなるところだろう。
だけど、この映画で取り扱ったのは、既に知られた問題であると言えるし、この映画を魅力的な作品にしているのは、それらの問題に立ち向かっている人間の見せる強さであり、その人々が動物に向ける愛情であり、その人間と動物の関わりを見つめる飯田監督の眼差しである。だから、内容を詳しく述べたとしても、この映画の魅力が損なわれる性質のものではないと思う。内容をいくら言葉で説明しても、生き物とそれに関わる人々を追い続けたこの映画の表情を語り尽くすということはないだろう。それでも知りたくない人はこれから上映される映画館に足を運ぶか、全国上映の終了後にリリースされる予定のDVDを手に入れて内容をその目で確かめて欲しい。多くの人になによりも映像を観て貰いたいと思う。

劇場情報は時々更新されている。東京では渋谷ユーロスペース吉祥寺バウスシアターの放映が終了したが、年明けから渋谷UPLINK Xで放映される予定。


また、監督も度々言っているけれど、辛い内容を扱うということで敬遠されがちなのがこの作品だ。動物を好きだから観たくないという人が多いという。でも、辛いことばかりじゃない。きっと共感できる作品になっている。
例えば捨てられた子犬を養う為にお年玉を注ぎ込み、世話をしながら里親を探す子供達。この映画には動物が好きで助けたいという気持ちが絶えず流れている。少し痛みを添えながら。
それでもやっぱり観たくないという人にはそれ以上薦めるべきではないのだろう。飯田監督は無理に観て欲しいとは言わないし、稲葉さんもきっと押し付けがましいのは好きじゃないだろうから。

「可哀想だから観たくない」という人には、とりあえず監督自身が完成した作品について語った言葉で判断して貰えば良いと思う。

視点・論点2009年09月18日

ニュース番組に出演した模様


舞台挨拶


飯田監督の人柄は良くわかると思う。


こちらは映画プログラムにも収録されているインタビュー。

けっこう難しいなと思うのは、
犬や猫を好きな人たちの気持ちです。
殺される命は減らしたいよね、かわいそうだよね、
できることがあれば協力します、チラシを人に撒いたりもします、
でも、私はそういう辛い場面は見ていられないから行けない、
という人がけっこういるんですよ。
そういう人に、わざわざ見てもらう必要はないじゃないか、
という考え方をしてもいいんですけれど、
僕は、やっぱり見てもらいたいんですよね。
辛いだけではないし、
薄っぺらではない骨のある「希望」も入れたつもりです。
それでもこの映画を見て、立ち直れなくなるのだろうか、という。
そこを勝負させてほしい。

勝負してます。本気です。

処分する現場の実情

動物に関心があったわけではないという監督はまず、街中で動物を連れた人にインタビューするなどしていた。しかし勉強を重ねるうちに「処分」の現場を見る必要があると感じたのだろう。監督は動物愛護センターに取材を持ちかけたが何度も撮影を断られた。
無理も無い話ではある。インタビューに応じた職員は「放送されると可哀想だと抗議が来る」と話していた。犬や猫が一箇所に集められて殺される現場など、誰が見ても酷いものだと感じる。下手にメディアで露出しようものなら抗議が殺到し業務に支障が出ることは目に見えている。余り感情を表さず淡々と語る中で「尻拭い」の言葉が印象に残る。
そんな中、千葉県動物愛護センターは撮影を許可してくれた。
これから処分されることになるはずの犬を撮影する監督。「あまりに人を求めるので思わず手を出してしまった。」とナレーションを入れる。そして「もうすぐ死ぬのだと思うとたまらない」とも。やがて職員に「動物は好きですか」と質問する監督。誰もが好きだと答えていた。ある職員が心情を吐露する。「好きだからこそ自分の手でやりたい」「動物が嫌いな人に酷い扱いをされるぐらいなら自分の手でやりたい」動物愛護センターの職員には獣医師もいて、自分の手で子猫に麻酔薬を注射し、一匹ずつ安楽死させていく様子も撮影された。

「崖っぷち犬」でメディアの注目を浴びた徳島県動物愛護管理センターも撮影に応じている。
聞けば、この施設には炭酸ガス処分を行う設備が無い。それというのも施設設立の際に反対が有って、処分を行うなら施設自体を設置できないという状況だったらしい。結局施設にはレールの上を自走する「鎮静器」*1が設置されている。処分対象の動物が中に入って蓋を閉じると、待機しているトラックに積まれて施設外に移動し、火葬場に到着する前に車内で炭酸ガス処分を済ませるのだ。
なんという歪んだやり方だろうか?呆れる他はない。しかしこの結果をもたらしたのは殺処分反対の声である。
増えすぎた犬や猫を施設内で殺すことはできない。しかし収容数に対して譲渡数は数パーセントに過ぎず、処分しなければ膨大な数の動物で溢れかえってしまうのだ。反対するならお前が死ぬまで面倒をみるか里親を見つけろと乱暴に言えばそういう話である。

命に線を引くこと

監督は動物愛護の現状を肌に感じるべく、愛護団体*2の近くに事務所を構え、長期間通い詰めた。
こちらでは野良猫を捕獲し、避妊/去勢手術を実施している。
捕獲したメス猫が既に妊娠している場合、元々子宮全体を摘出する避妊手術はそのまま堕胎手術になる。「これだけは何回やっても慣れない」と言う獣医に断り、子宮に包まれたままの胎児を触ってみる監督。まだ暖かく、間もなく産まれるところだったのか動きさえする様子に「これは間違いなく命そのものだ」と語った。
捕獲は簡単な罠を仕掛けることによって行われる。面白いように引っかかる猫達はなんだかマヌケ
で、映画館でも笑い声がしていた程。しかし回収し中を確認する作業は笑えない。中で子猫が産まれていることも少なくないのだ。
産まれたらどうするのか?「もう溜息ですよね」と獣医。罠の中で産まれた子猫達は深い溜息に迎えられ、保護施設で育てられる。一方では産まれる間際だった子猫が子宮ごと摘出され死んでゆく。その差は回収が行われる朝、出産が間に合うか間に合わないか。そこでは命にタイムリミットがある。

CCクロというボランティア団体*3では行政*4と協力し、譲渡支援を行っている。
代表を務める松田さん*5は先陣を切り手本を示すような人物で、自分から行政に働きかけて協力を取り付けたというんだからすごい人だ。「行政は言わなきゃ動かない。文句を言わなきゃダメ。どんどん文句を言って動かせばちゃんとやってくれる。今は大したもの。よくやってる。」*6そんなことを言う松田さんは行政に対して影響力を持っていて、保護動物が譲渡対象になるか処分されるか、松田さんの評価によって運命が分かれたりする。
それならば甘めに評価して処分が減るように努めているのかといえばさにあらず。むしろ逆だ。
感情に流されて甘い評価をすれば問題が起こる。一匹の譲渡犬が問題を起こせば譲渡犬全体の信用が損なわれる。今目の前にいる一匹を救おうと情けをかけることが、これから救われるはずだった何百、何千という犬の命を損なうことに繋がると松田さんは考えている。だから評価は極めて冷徹であり、譲渡が不適切と思われれば率直に伝えるのだ。それで殺されると分かっていても。
松田さんは殺処分を「止むを得ないこと」と捉えている。自身の愛護活動の中で安楽死を引き受けてくれる獣医を探したこともある。

やはり約30年以上前に 私は生涯感謝し続けるお一人の獣医師に助けられました
今では想像すらできないくらいに 当時は遺棄も放棄も多く ボランティアが歩けば動物に当るといった状況であり 道端の段ボール箱はかならず開けて確認したものです
予想どうりに殆ど動物が入れられていました 生体であり 死体となっていたり 今では実感できないことと思います 過剰な表現と思われるでしょうね
そして 動物の感染症(テンパー パルボ)にかかった動物たちは治療にも 安楽死処置にも協力を得られ難い状況でした
そのような時にそのお方は「どうしても死を強制しなければならない状況にある動物を少しでも安らかにしてやれるのであれば私の技術を提供します」と言い切ってくださり何所でも安楽死処置を敬遠され途方にくれていた時 当に地獄で仏のようでした

http://s-ma.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/post-9db2.html

時に命を奪うことが正しいこともある。その決断をすることは苦しいが、そこから目を背けることはより多くの苦痛や死となって現れてしまうだろう。
多くの動物愛護団体は空想を語っていると松田さんは言う。殺処分ゼロなど現実を見ていない、空想に過ぎないと。
このような取り組みにも疑問を呈している。

「よいこともされている半面 保管状況は映像で見る限りではネグレクトであり 全ての受け入れ拒否は行政機関としての責務を果たされていない」と申しました

http://s-ma.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/sma-793a.html

自分も「簡単に受け入れないと分かったら持ち込まずに捨てるだけではないか?」と疑念を感じたクチだが、松田さんは受け入れた動物の管理体制にも疑問を感じるようだ。とはいえ行政が変わろうとしていること自体は評価して良いようにも思う。まだこれから改善の余地があるということだろう。
ただ、殺処分「ゼロ」はやはり無理がある。それを実現するには譲渡不可能な問題を抱えた動物までも処分せずに死ぬまで面倒を見なければならない。余程数が減れば可能かもしれないが、現在の状況を考えて現実的な選択とはとても言えない。
救える命と救えない命の間に線を引くこと。災害や紛争の現場で医療を行う際の「トリアージ」みたいだが、それぐらい動物を取り巻く現状が過酷だということだろう。救うべき対象が多すぎる時は優先順位を付けるしかない。

「殺処分ゼロ」は「戦争の無い世の中」みたいなもので、理想としてはアリだが実現を前提として行動できる指標ではない。
子供がエベレストに登ると言っても「もっと大きくなったらね」と言われるようなもの。ずっと未来にもしかしたら有り得るかもしれない可能性でしかない「夢」だ。

だけど夢に近づいていくことはできる。ロンドンには野良猫が居ないという。路上で暮らす猫は保護され、里親が見つかれば引き取られていく。病気や怪我を抱えていても、理解のある人間が引き取るという。ただ、こういった取り組みをする為に多額の予算*7が認められているイギリスと比べるのは、まだあまりにも早すぎる。

犬のしつけ

「しろえもん」という犬が出てくる。監督が通い詰めた団体の保護している犬で、ものすごく元気な上に人を見るとはしゃいでしまう性格をしている。その様子は微笑ましいがそれだけで済まないぐらいに力も強い。
きちんとしつけることができないまま希望者に引き取られたが、結局手に負えず返されてしまった出戻り犬である。なんでも散歩中あまりに引っ張るので手首を傷めたとか。
この犬のしつけにトレーナーが招かれ、団体職員も指導を受けて改善していくことになる。
方法は古典的なもので、言うことを聞かない時は叱るというやり方だ。ただし単に叱りつけるというワケではなく、引っ張ると首を締め付けるという鎖でできた首輪を使う。孫悟空みたいだと思った。
見ていて痛々しい感じで、職員もあまりやりたくない様子なのだが、トレーナーは「痛みには鈍感な生き物なのでショックを与えるだけ」だと言う。
(山本央子と書いていましたが間違いの指摘がありました。山本氏は逆に褒めてしつけるトレーナーであり、全く逆の方と間違えるという大変失礼な扱いをしていました。申し訳ありません。)*8
実際に指導をしていくと確かに大人しく散歩をするようになったようだ。しかし首輪を外すと途端に言うことを聞かなくなる。相手によって態度が違うようでもある。
本当にこの方法で良いのだろうか?監督は疑問を持ったようだ。ある日、カメラを前に置いて自分の感じたままを職員と話す。カメラ越しに問い質すということはやらない。自分も画面に映る形で、現場に居る人間同士の意見交換という雰囲気だった。
職員の間でも疑問があったのだろうか。やがて別のトレーナー*9が招かれた。こちらは褒めるやり方。望む行動が得られたらフードを与えて褒める。違う行動を取ったら取り上げて「アレェ?」と言って分かり易く間違いであることを伝えてやる。この方法は犬も人間もストレスが無い。結局こちらに切り替えて上手くいったようだ。
この方法は「陽性強化」と呼ぶようだ。現在主流となっているもので、動物愛護センターでも陽性強化の方法が紹介され、講習会もある。

この「陽性強化」が主流であるとされる時代に尚 チェーンカラーによる首締め上げの「恐怖訓練」が「専門家」と名乗る人によりされている現実もまざまざと見せられました
それも動物愛護を名乗る施設においてです
問題行動の矯正により社会化の強化を図りたいと言う思いであったのでしょうが 犬に恐怖を与え 人への不信感を募らせ 自ら社会化を否定されているような行為です

http://s-ma.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/post-b4ca.html

犬は人間とちがいます。
「ぼくが悪いことをしたからおこられたんだ、次からしないようにしよう」とは考えられないのです。
それより、できるだけ失敗させないように気をつけてあげてください。
そしてじょうずにできたときに、うんとほめてあげること。
そのほうがずっと近道です。

http://www.pref.chiba.lg.jp/syozoku/c_eisi/aigo/rensai/kouza4.html

しろえもんの態度から考えると、叱る方法は番犬を作るには向いている。主人に従う一方で他の人間には従わず、自分の仲間と認めない人間がテリトリーに入ってくれば警戒と敵意で迎える。そういう犬を育てるにはあの首輪が最適なのではないだろうか。(番犬にしても信頼関係が無ければ良い結果にならないとご意見を頂きました。確かに高いレベルの番犬にはならない様に思います。)
しかし現代のペットとして暮らす犬に求められるのは、そういった限られた人間への隷属ではなく、見知らぬ人間が大勢居る場所で迷惑をかけず落ち着いていられる、人間全般を信頼した犬である。
ちょっと名前で検索してみると、山本さんが講師を務めるセミナーの参加者がブログに感想を書いている。その内容を見ると、しろえもんに対して行ったような厳しい体罰型のしつけは薦めていないし、リードを緩めて犬を引っ張らないようにする「Jリード」を推奨していたりする。ただ、持論としてその犬に資質が無ければ高度な社会化を行いセラピー犬などにすることはできないと考えているようだ。勿論そういった仕事をさせるには向き不向きがあるだろうけれど、従順な態度を取る犬を作り出すことが基本に置かれているかのように感じないでもない。
しかしこの辺りは簡単に判断してはいけないのかも知れない。仕事を持つ犬のストレスというのは犬自身にとって許容できるものなのだろうか。盲導犬など高度な仕事になるとよりストレスは大きいはずだ。彼らは犠牲になっているのか、良いパートナーなのか。人間が自分を必要とすることに犬は喜びを感じるのだろうか。
ともあれ、普通の家庭でペットとして暮らすなら陽性強化で良いと思う。
(訂正エントリも作りましたが、山本氏も陽性強化のトレーナーです。信頼関係を重視する方なので、単に従順な犬を求めているのではなく、人間を信用した犬が喜んで従うことを求めているのでしょう。旧式の体罰を行うトレーナーが誰なのかは分かりませんが、批判が集中することを避ける配慮でしょうから「誰であるのか」を問題にすべきではないと考えます。)

半世紀見てきた「業」

日本動物愛護協会附属病院で1977年まで勤めた前川さんという獣医師が出てくる。彼は「人間の業」と口にし、戦時に行われた犬の「献納運動」について語ってくれた。
皮は飛行服、肉は食用にとうたわれ、お国の為に犬を納めなさい、応じないのは非国民とやったようだ。しかし前川さん曰く「どれだけ活用されたか疑わしい、体の良い狂犬病対策。」だという。
これを聞いて押井守の立喰師や鉄人に出てくる戦後の野犬狩りを連想した。あれはオリンピックに向けて欧米の人々を迎えるべく路地裏まで清潔にしようという話で、当然狂犬病対策も含まれる。
前川さんは移り行く時代の中、動物愛護協会の同じ敷地で、捕獲された犬の処分と治療を両方経験したのだろうか。人間に余裕が無ければ動物は守られない。社会が狂えば動物も悲惨な目にあう。
人間が作る社会で生きている以上、動物と人間の関係はどうあっても人間が主で動物が従だ。動物の問題と言ってもその主体は人間である。
この映画は動物の映画だけど、それ以上に人間の映画になっている。「犬と猫と人間と」というタイトルに偽りは無い。犬と猫のことを考えたら、人間のことも考えていた。片方だけでは終われなかった。そんな映画だった。

「好き」と「大切」は違う

こちらは飯田監督と「富士丸探検隊」の穴澤さんの対談記事。富士丸というのは保護されていたのを穴澤さんが引き取って飼っていた犬で、対談直前にこの世を去ったそうだ。買う以外の選択肢もあると主張する穴澤さんにとって、ペット産業の問題も扱ったこの映画は共感できる内容になっている。

穴澤 映画の中では、飼いきれなくなったからと犬や猫を施設に持ち込む人たちにも話を聞いていますよね。

穴澤 基本的にそうした人々が口にするのが「しょうがないのよ」という理由じゃないですか。でも、「しょうがない」と言ってしまえば、なんだって「しょうがない」のひと言で片付けられてしまうと思うんです、僕は。

穴澤 だって、どんな理由があるにせよ「手放す」「捨てる」という結論にいたるということは、そう いう選択肢を元々持っているからでしょ? いや、わかるんですよ、家庭の事情や、経済的な理由があることは。だけど、選択肢として持っているから、そうい う結論にいたるわけで、「何が何でもなんとかする」と思っていれば、その結論には至らないわけじゃないですか。もちろん、これが、きれい事だということは わかるんですよ。だけど、人間なら誰しも、自分が選択肢として持っていないことはしないと思うんです。

映画には離婚して生活保護を受けることになった女性が登場していた。飼い犬の処分は忍びなく愛護団体に持ち込んだのだ。どのような事情があるのかはわからない。ただ、無理できる年齢ではなさそうだったし、何らかの形で人を頼るしかないのだろう。なりふり構わなければ、誰かに迷惑をかける解決策というのもあるかもしれない。そうすべき、とは言えないのだけど。

飯田 もしかしたら、単純に「動物が好きだ」という人は、「捨てる」ことがあるかもしれない、と僕は今、どこかで思ってますね。
穴澤 あぁ、「好き」と「大切」は違うということですか?
飯田 人間関係でもそうですが、「寂しさを埋めてくれる」「何かをしてくれる」など、相手から 自分が何かを得られるかどうかが、その相手との関係性で重要なことになってしまう、ということは誰しもにある部分ですよね。でも一方的に求めているばかり では、関係は成り立たないわけです。それが犬や猫に関していえば、自分の力だけでは生きていけないのだから、飼うのならば、本来は「守ってやる」「大切に する」と思えるかどうかが大事ですよね、たぶん。そう思わない人は、「好きだけど」捨ててしまえる。

最初は誰でも好きなだけなんだから、それ以上になる過程があったかどうか、なのかな。

飯田 僕も、穴澤さんがおっしゃった部分には正直ジレンマを感じます。ただ、現状をもう少しマシにし ていきたいと思うときには、まずその現実を知ってもらわなければ、どこから変えていいかもわからないと思うんです。たしかに、動物を捨てるような人はこの 映画をわざわざ映画館まで足を運んで観ないと思います。でも、この映画を観てくれた人が何かを考える。そこから少しでも、何かが変わるきっかけができるの ではないかと…だから映画にする必要はあると、僕は考えてはいます。

多くの人が知ったら、多少は変わる、と信じたい。だから沢山の人が観て欲しいと思う。

飯田 今ね、この映画の宣伝活動をするなかで、動物好きな人ほど「私は可哀相すぎて観られない」とかいわれちゃうんですね。
穴澤 でも、僕の感想ですけど、観た後に落ち込むような映画ではないと思いますよ、内容の割にはね。怖がって観る勇気がないという人には、怖がる必要はないといいたい。出来れば観て欲しい。

このページの最後にある画像で犬を抱いてたたずむ子供達は、捨てられていた子犬の里親を探す為にお年玉を使って面倒を見ている。自分達のお金を使って始めたという、その意思を受けて周囲の大人も動かされ、協力して里親を見つけることができた。
惨状を目の当たりにしても、だから何とかしてやりたいという人達が居るから希望を持てる、そんな映画の内容を象徴するような画像だと思う。

感想

こういった問題に関心があって映画館に足を運んだ動物好きの人達の意見・感想を集めてみる。

きっと、涙が止まらないに違いないと、私は厚手のタオル。詩音ちゃんママはティッシュを箱ごと持参したけど、思ったより大泣きはしませんでした。愛護センターの処分の画ももちろんありました。辛いシーンも隠さず描いています。でも、監督が極端な動物愛護の人じゃないことが、かえって冷静な映像を映し出せたのではないかと思います。私たち犬猫大好き人間はとかく「かわいそうな部分」を強調してわかってもらいたい、こんなにひどい、こんなに残酷と訴えたくなってしまうのですが、彼はスタートがニュートラルな分、偏らず冷静でそして学ぶ姿勢で「犬猫大好きじゃない人と同じ目線」で書けているように思えました。もちろん、何年にもわたる取材の間に、彼は犬や猫に心を寄せるようになるのですが。

まず無心に観て、それから考えて欲しい。そういう映画ですね。

私がもし監督なら、
怒りと悲しみばかりが先走り、
過激な作品になって、
こんなふうには撮れないだろうと感じました。


飯田基晴監督は、
きっと一人でも多くの人に
観てもらうことに意義があると、

4年もの間、
悲惨な現実と向き合い、
ご自身の中から溢れる
あらゆる思いや憤りを
冷静に受け止めながら、
使命と感じて撮影されたのではないか、
と私は推測します。

4年間もかかって撮影した膨大な量の映像を編集することになって、やろうと思えばいくらでも過激に、動物愛護の側から社会を攻撃する内容にできた。でも飯田監督は問題を指摘こそすれ、攻撃はしない。現場に溶け込んで取材していても、それを映画として仕上げる段階で動物愛護の側には立たず、部外者である自分は非難される社会の側といったところだろうか。

多分、この映画を観に来てるお客さんは、この映画を観る必要のない人たちだ。

わざわざこんなつらい映画を観るために休日の午前中を費やすんだからね。

ヒリヒリヒリヒリと心がつねられるような痛みを感じる。

「もらい泣き」というよりは、人間であることを懺悔するような、いやーないやーな涙が湧き出てくるのだ。

確かにちょっと、いやかなり痛い映画かも。

日本はペット大国ではあるが、ペット天国ではない、と映画は言う。食料にされるわけでもない動物が、人間の都合で大量に買われ/飼われ、捨てられ、殺される社会はまともだろうか----。

 僕はある時期、愛犬雑誌のライターをやっていたことがあり、いわゆる愛犬家や獣医師を取材した経験が何度もある。動物実験の現場は何十カ所も訪れた。いわゆる屠畜場で、ウシやブタが解体される一部始終を見たこともある。捨てられたペットの殺処分は、ある人が撮った映像でなら見たことがある。去勢手術はこの映画で初めて見た。まだ小さな猫が麻酔注射で「安楽死」される様子も。

 この映画の主人公はもちろん捨てられたイヌやネコなのだが、捨てられた人間たちの姿も、わずかだがスクリーンに登場するということは、僕だけでも書き留めておこう。

監督の前作はホームレスの映画というワケで。
多摩川でホームレスが世話をしている猫が居て、台風で一緒に流されてしまった。人も猫も行方不明。人の方が大きな被害だったようだけど。
猫の写真を撮り世話をする小西夫妻*10によれば、野良猫のほとんどは1年ぐらいで死んでしまう。ホームレスの小屋は外よりずっと暖かかったんだろう。

あとは、個人的には、徳島の女の子たちが
拾った仔犬たちを育てているところで
「もらってほしくて」って言ってたのに、
実際に犬がもらわれていくときに
すごく泣くんですよね。
あそこでウルッときて(笑)。

大事だから預けるんだけど、大事だから悲しくなっちゃうんだよね。

ぼくがこの映画を観て思ったのは、
「オレはいつ大人になったんだ?」
ってことなんですよ。

子どもであることも
素敵なことがいっぱいあるし、
大人になんかならないほうが
いいこといっぱいあるんだけど、
自分より弱いものとの関係では、
大人にならないということは
いけないことだと思ったんだよ。

「自分より弱いものとの関係では、大人にならないということはいけないこと」
感情だけでは責任取れませんからね。何ができて、できないのか。白黒つけないといけなくなります。

犬や猫のことを考えるのは、
きっと、人間を考えることより、
少しだけシンプルなんだ。
でも、ほんとうは、この映画は
「オレは人間を考えてるんだよ」
ってことなのかもしれない。
この入口から入っていくと、
いろいろわかるんじゃないかな?

昔はやっぱり、
犬猫のことを考える前に、
人間が生きるほうが大変だったといわれてるから、
より弱いものが粗末にされていたよね。
自分が幸せじゃないほうがいいのか、
といったら、そんなことはない。
この映画は、
答えが出ないタイプのことを含んでるんだけど、
答えが出ることも含んでます、という気がします。
まずは、捨てないことだよね。

ペット産業の問題とか、結局人間の社会がこうなってますという映画だから、改善の余地はあるはずなんです。

家族として犬を飼うという発想は、
昔はなかったような気がします。
犬はもともと、
猟犬や番犬としていたんだよ。

仕事をする犬。牧羊犬とかどういう扱いだったんだろう?

うん。だから、
間違ってるとか、正しいとかいうことよりも、
社会にある考え方の一部を
人は心の中に持つものなんだね。

今は動物を家族として扱う考え方が多くなってきたから、こういう問題が表面化してきたんですね。
処分自体は昔から、それこそ国が呼びかけてやってたのであって、それで問題にならなかった時代もあった。

監督は訴えてないもんね。
ただ、「あ、そうか」って言ってる。
映画としてほんとうによかったと思うのは、
「なぜ作ったか」ということが
映画の中に入っていたことです。

もしも映画が
「私はそのことを知りたいと思った」
という監督の独白ではじまっちゃったら、
いい心とかいい映画を作るために
映画を撮った、みたいなことになります。
でも、この映画は見事に、
受け身からはじまってるんです。
最初さ、観るの、
ちょっと気が重くなかった?

映画を作った人も頼まれたんだなぁ、
と思ったら、
ものすごく楽になったよね。

「観た人が生き物を大事に思って欲しい」という以外、何も方向付けがされていなかった。だから多面的になったんだろうな。

最初に夢と希望ありきではじまってたら、
それに合わない現実に対して
もっと怒る映画になっていただろうと思います。
だけど、この映画は、
「どうしたものかね」という感じで
はじまったから、ありがたかったです。
それに、徹底的に優しいです。

‥‥なんだろう?
この映画に出てきた人たちに
共通する部分がある気がします。
つまり、みんな、
考え方を言ってるんじゃなくて、
実際にやってるんだ、ということなのかな?

途方に暮れてとにかく取材してみたら、頑張ってる人達が一杯いたんですね。その人達のことを知ろうとして寄り添うような目線だから良い。

監督は、撮影していて
気になったところがあっても
なんだか、闘わないんだよね。
そのへんの感じがおもしろかった。

一緒に考えましょうっていう感じなのが飯田さんらしさ。現場に溶け込んじゃってる。

これから死ぬんだよ、
という犬もたくさん登場したけど、
それが、ほかの犬と
おんなじかわいさなのな。

怖がって震えたりしてなくて、
なんだか無心の目をしていて、
かわいかったんだ。
監督さんって、たしか
ホームレスさんの
映画を撮ってたんだよね。

それを観て、あのおばあさんが
映画制作を頼んだのかもしれないね。
犬や猫を見る視線が
人間を見る視線と同じで、
「どうすることもできないかもしれないけど、
 何かできるかもしれないじゃない?」
という感じが表現されていると思います。
だから、ぼくらも、
これを観たから立ち上がろう!
ということではないんだけど、
まず、自分の周りにいるものは、
ということは考えますよね。

よく「考えさせられる映画」って表現があるけど、まさにそれ。結論ありきで訴えるんじゃなくて、どうしたら良いかということは観た人に投げちゃう。そういう映画です。

*1:炭酸ガス処分を行う容器をこう呼ぶようだ。

*2:財団法人神奈川県動物愛護協会

*3:「神戸市犬譲渡会支援グループCCクロ」改め「神戸市動物管理センター譲渡事業支援ボランティアグループ社団法人日本動物福祉協会CCクロ」CCはCity Centerの略でクロはしつけ指導モデル犬第1号となった犬の名前。殺処分から救命譲渡への方針転換を記念してこの名を冠している。

*4:神戸市動物管理センター

*5:松田早苗氏。取材当事は代表だったが現在は引退しアドバイザーとしてスタッフの相談を受ける立場。他の活動もしているようだ。

*6:かなりうろ覚えで細部は違うと思うがこんなようなことを言っていた。

*7:よく覚えてないが9兆円とか言ってた気がする。

*8:山本央子。家庭犬インストラクターとして、しつけ教室、問題行動のカウンセリングに従事。 優良家庭犬普及協会常任理事、非常勤講師。My Super Dog主宰。著書「ヘンリー、 人を癒す」http://www.japdt.com/conference/3rd/profiles/profile_yamamoto.html

*9:藤本聖香氏。獣医師、英国APDT認定ペット・ドッグ・トレーナー。2004年に渡英、クリッカーレーニング、問題行動のカウンセリング&トレーニング方法などを学び当地にてAPDT UK(Assocation of Pet Dog Trainers UK)のトレーナー資格を取得、帰国後Canine Relationz DogSchoolを設立する。http://www.canine-rez.com/

*10:西修・美智子夫妻

エロゲ規制と児童ポルノ規制法案その1

なんかまたエライことになってるみたいなワケですが。エロゲ云々との絡みもあって色々複雑だけど、とりあえず法案の方中心で現状把握を試みる感じで。
規制の内容に疑問を感じるということで以前にも切り貼りしましたですね。

まーざっとこの辺りで感じたことと言えば、まず被害者の存在しない二次元ポルノの取り締まりなんて気は確かかってことと、既に持ってるものも含めた単純所持を禁止するって遡及法にならないのかソレっていうこと、それからテメーの国で性犯罪多いからって日本を児童ポルノ大国呼ばわりとはどういう了見だデータ見てからものを言えゴルァ!ってのと、日本ユニセフ怪しいよね、って感じか。あと宮台真司GJ。
で、まず遡及法になるかどうかと言えば、多分ならない。「過去に手に入れた」ことではなく「現在持っている」ことが対象ならそういうことだろう。継続犯っていうらしいけど。
まぁ単純所持については、世界的な児童ポルノ摘発の動きの中で、麻薬の様に厳格な扱いをすることによって流通を阻止するという意味が有り、日本が協力して被害者を減らすことになるなら賛成しても良いと思う。だけどやっぱり基準が明確で無いと不安になる。所持するだけで違法なんだから、人によって判断が分かれるようでは困るのだ。
そして二次元ポルノを含むというのは絶対におかしい。理解できないものに対する恐怖の深刻さというのは、それが逆に恐ろしいものとなって恐怖の対象を襲う所だ。
日本ユニセフが怪しいなんてのはまぁどうでもいい話で、MIAUの質問に答えないのも想定内。


さて、今ですよ。なんですかねこのザマは。

色々酷い発言があったみたいですが、なんといってもコレでしょう。
「自白は証拠の王様だ」
拷問でもする?自白剤必要?ねぇ?
警察OBかなんか知らんが、取調べの透明性とかどんだけ批判があると思ってんだ。お前いっぺん取り調べられとけ。痴漢容疑とかで。
あと電子ファイルは開かないと人間に理解できませんから。

自民「メール、郵便、FAXでポルノモノを持ってるだけで逮捕します」
民主「冤罪増えるだろ死ね。足利事件は反省してねーのか」
自民「メールがきたらポルノだと思いなさい」

自民「こんな絵絶対許さない」
民主「自分で描くな」

公明「凌辱モノがひどすぎて涙がでてきます・・・グス・・・」
民主「あなたさっき目薬してましたよね?」

自民「映画、出版物、大女優だろうと関係ない、
今までの映画も本も写真も18歳以下のヌードなら全部捨てろ」

自民「ジャニーズは児童ポルノである」

自民「電子メールに児童ポルノが添付されているかどうかは、ファイルを開く前に分かるはずだ」

自民「えっちでぃ(たぶんハードディスク)に入っている画像を、何回開いたかチェックして、故意かどうかを調べる」

自民「宮沢りえサンタフェ捨てなきゃ逮捕」(刑罰の遡及肯定)

有り得ないよなこんな茶番。反対されるに決まってんだろ。
さらに葉梨さんとやらは民主党案を攻撃し自民党案を擁護。

ただ、少し法律をかじった者からすれば、民主党の法案は、すなおに読めば、
ジャニーズの上半身裸写真を児童ポルノの対象としてようとしているとしか思えない。
だから、私は、質疑の中で、「(民主党さんの案では)、民主党が除外したと称している
『ジャニーズの上半身裸』も『児童ポルノ』になりますよね。」としつこく質したわけだ。
 枝野氏の答弁は、何が当たるか、何が当たらないか、答弁を聴けば聴くほど極めて
あいまいで、多分民主党案が成立すれば、警察権力が市民生活に介入するきっかけを
与えてしまうかも知れないという印象だった。

「警察権力が市民生活に介入するきっかけを与えてしまうかも知れないという印象だった。」
せーの、お前が言うな。

さらに、今回の与党改正案は、現行法の定義規定に変更を加えていないため、
改正案以外の定義規定の解釈について、私が有権的な解釈・答弁を行うことができる
はずもない。立法時、児童のヌードは基本的には「児童ポルノ」にということで検討し、
その上で、「性欲を興奮させ、刺激するもの」に限るという限定を付したが、
立法時考えられた医学書、家族の記録のほか、施行後、裁判所により、「性欲を興奮させ、
刺激するもの」の具体的内容が判示されるに至っている。判例の詳細な引用は省くが、
具体の書籍が「児童ポルノ」に該当するか否か、私は、第1義的な解釈権を持つ所管
省庁が判断すべきと思うし、ミリオンセラーにもなった有名な書籍であれば、
政府も、問い合わせに対応する位のサービスはすべきであろう。なお、「サンタフェ
については、私も後で聞いたが、衆議院法制局によれば、「判例に基づけば『児童ポルノ
に該当しないのでは」とのことで、私が「『サンタフェ』を廃棄しろ」と言ったなど、
誤解に基づく決めつけも甚だしい。

サンタフェで騒がれて逃げたな。「厳密な話は専門家でないとわからないので、後で聞いてみました。大丈夫みたいですよ。」てか。適当なこと答えといて「誤解に基づく決めつけも甚だしい」などとよくも開き直る。
しかしまぁサンタフェはセーフという見解が得られたのは良いことだな。どんどん答弁すれば良いと思うよ。
自民党にもまともな人は居るしね。

処罰規定の適用を1年遅らせる、という私の提案は既に受け入れられていた。

一般的な所持禁止に止まらず、罰則を付して所持をするのであれば、法律の構成要件をより一層厳格化すべきで、濫用の虞がないようにしなければならない、と提案もしていた。

この点については、「法の適用・解釈の留意事項」をより厳格化することになった。

これで、「児童の保護」という本来の法の目的を逸脱して処罰規定が濫用される虞が少なくなった。

さらに私は、処罰の構成要件をより一層明確化することを求めていた。

すなわち、所持だけでは逮捕も強制捜査もできないようにするために、所持にプラスして、所持に至った原因行為である取得行為や製造行為の立証も必要になるような規定ぶりを提案していた。

残念ながら、これは、受け入れられなかった。

しかし、今朝の自民党の部会の議論としては、私の見るところ、私の修正提案の方がより周到で良い、という評価が大勢だったようだ。

私の修正提案が法務部会としての結論にならなかったのは、あくまで政治的な配慮によるもの。

この国会では、とりあえず提案するだけである。

まだ民主党の検討も済んでおらず、この通常国会では成立の可能性がない。

今回の改正が本当に実現するためには、民主党と十分協議をしなければならない。

そのときの交渉材料にすれば、いいのじゃないか。

そんな感じだった。

「この国会では、とりあえず提案するだけである。」本当に?そうだと良いけどなぁ。

それにしても、出席したそれぞれの議員から主要な問題点がほぼ全部指摘されたことは嬉しかった。

宮沢りえサンタフェやジャニーズの上半身裸の写真が児童ポルノに該当しない、ということを明確にせよ。

自分の子どもと一緒にお風呂に入っている写真が児童ポルノには該当しない、ということも言明して貰わなければならない。

本当に大丈夫か。

自分で判断能力のない幼児の児童ポルノと、自分の自由意志で裸の写真を撮る高校生を同じように児童ポルノの範疇に置くことはおかしい。

なんとか規定ぶりを変えられないか。

児童の定義を変えて、幼児だけを対象にするようにしたらどうか。

まさにポイントを突いた意見が開陳された。

このブログでも交換された意見と同じような議論である。

皆さんのメールやファックスが自民党の国会議員の認識を高めたのかも知れない。

その外にも、国会図書館で閲覧禁止となっている本の指摘もあった。

国会図書館だけでなく、その他の官公署が保管している書籍は、どうするのか。

これまでに書店で購入して所持していた物がまさか違反だ、といって摘発されるようなことはないだろうな。

そう、法務当局を厳しく追及するような声も上がった。

ここまで自民党の一般の国会議員がこの法案の問題点を認識していたのである。

この法案が法務委員会に付託されたら、国民の前で充実した議論が展開されることは間違いない。

密室で議論するより、国民の前に問題点をさらけだして議論を展開し、そのうえで法案の修正を図ることが一番望ましい。

どうやらこの法案は、そういう路線を辿りそうだ。

この人の言う通りだと良いんだけどなぁ。
ここらで法案の中身を見てみましょう。

両党の改正案

「最終改正:平成一六年六月一八日法律第一〇六号」現行法です。

民主党

http://www.shugiin.go.jp/itdb_gian.nsf/html/gian/honbun/youkou/g17101012.htm

  • 第一 「児童ポルノ」の名称の改正及び定義の明確化
    • 一 「児童ポルノ」の名称の改正(題名、第二条第三項等関係)

本法が風俗犯に関する法律ではなく、あくまでも児童に対する性的搾取及び性的虐待に係る行為等の処罰に関する法律であることを明確にするため、その対象である「児童ポルノ」の名称を「児童性行為等姿態描写物」に改めること。

あえて「描写物」という言葉にしています。「ポルノ」という言葉が曖昧過ぎる為に「性行為等姿態描写物」とすることで「性行為描写を含まないポルノ」という基準の良くわからないものを除外したということでしょうか。
以前法案が話題になった時は「児童」というのが法律用語として実在の人間を指す言葉だから二次元は含まないという話もありました。それを信じるならかなり真っ当な内容ですね。

    • 二 児童性行為等姿態描写物(児童ポルノ)の定義の明確化(第二条第三項第二号及び第三号関係)

児童性行為等姿態描写物の定義を明確にするため、第二号を「殊更に他人が児童の性器等を触り、若しくは殊更に児童が他人の性器等を触る行為に係る児童の姿態又は殊更に児童の性器等が露出され、若しくは強調されている児童の姿態」との客観的な要件に改めるとともに、第三号を削除すること。

変更されたのは「他人が児童の性器等を触る行為又は児童が他人の性器等を触る行為に係る児童の姿態であって性欲を興奮させ又は刺激するもの」削除されたのは「衣服の全部又は一部を着けない児童の姿態であって性欲を興奮させ又は刺激するもの」の部分。
「性欲を興奮させ又は刺激する」「衣服の全部又は一部を着けない」が曖昧だからやめたってことですか。
ジャニーズ云々は「性器等」に乳首を含むなら「殊更に露出若しくは強調」されているとダメってことかな?突っ込まれたのは「殊更に」ってどのくらいだよということ。それからもう一つ「露出され、若しくは強調されている」という部分も「若しくは」なので露出せず強調しているのはどうなんだと追求されたワケね。
これはつまり法案の文言にアラが多いってことじゃないだろか。このままでは肝心な所でダメかも。

  • 第二 児童性行為等姿態描写物(児童ポルノ)等取得罪の新設等

新たな部分。重要ですね。

    • 一 児童性行為等姿態描写物(児童ポルノ)等取得罪の新設(新第七条第一項及び第十条関係)

みだりに、児童性行為等姿態描写物を有償で又は反復して取得した者は、三年以下の懲役又は三百万円以下の罰金に処するものとすること。みだりに、これに係る電磁的記録等を有償で又は反復して取得した者も、同様とすること。

「有償で又は反復して取得」ということで「わざわざ金出して買うヤツ」「繰り返し見に来るヤツ」とかが対象。

    • 二 児童性行為等姿態描写物(児童ポルノ)製造罪の処罰範囲の拡大(新第七条第四項関係)

提供目的以外の児童性行為等姿態描写物の製造の罪について、意図的に児童に一定の姿態をとらせて製造した場合に限らず、盗撮等の場合にも処罰範囲を拡大すること。

ポーズをとらせるなどして明確な製造意図があるものだけでなく、例えば偶然水着がずれちゃってるの撮影した写真なんかも含めるわけですかね。ジャニーズのライブを盗撮したら処罰?

    • 三 適用上の注意規定の明確化(第三条関係)

重要。さあどんな注意をして運用するんですか?

一及び二の改正にかんがみ、この法律の適用に当たっては、児童に対する性的搾取及び性的虐待から児童を保護しその権利を擁護するとの本来の目的を逸脱して他の目的のためにこれを濫用するようなことがあってはならない旨を明確にすること。

とりあえず「濫用するな!」とは書いてあります。「一及び二の改正にかんがみ」ということで、厳しくした分取り締まる側も注意しなきゃいけないと。
児童保護の目的から逸脱するなということなので、ライブ写真ぐらいはOKな気がしますがどうなんでしょう。ライブを盗撮されると性的侵害になりますか?ならないんじゃないかな。

  • 第四 心身に有害な影響を受けた児童の保護に関する制度の充実及び強化

この法律の目的を考えれば特に重要な部分です。

    • 一 心身に有害な影響を受けた児童の保護のための措置を講ずる主体及び責任の明確化(第十五条関係)

心身に有害な影響を受けた児童の保護のための措置を講ずる主体として、厚生労働省都道府県、児童相談所、福祉事務所及び市町村を例示し、措置を講ずる主体及び責任を明確化すること。

これは人権擁護法案でも出てきた、窓口を明確にするってヤツですね。どこに相談していいのかわからない、相談したらぞんざいな扱いを受けた、そういう事態を減らす為。直に警察へ行っても取り合ってくれないが相談窓口からの紹介だったら対応が違ってくるという話です。

    • 二 心身に有害な影響を受けた児童の保護に関する施策の検証等(第十六条の二関係)

社会保障審議会は、児童買春の相手方となったこと、児童性行為等姿態描写物に描写されたこと等により心身に有害な影響を受けた児童の保護に関する施策の実施状況等について、当該児童の保護に関する専門的な知識経験を有する者の知見を活用しつつ、定期的に検証及び評価を行うものとすること。

「検証及び評価」か。どのような「描写物」が児童に害を及ぼすかの実態調査もするんですかね。

自民党

http://www.shugiin.go.jp/itdb_gian.nsf/html/gian/honbun/youkou/g16901032.htm

  • 第一 適用上の注意規定の明確化

この法律の適用に当たっては、国民の権利を不当に侵害しないように留意し、児童に対する性的搾取及び性的虐待から児童を保護しその権利を擁護するとの本来の目的を逸脱して他の目的のためにこれを濫用するようなことがあってはならないものとすること。(第三条関係)

「児童に対する」からは民主党案と同じです。最初に持ってきたのは「気にしてるよ!」っていうアピール?

何人も、みだりに、児童ポルノを所持し、又はこれに係る電磁的記録を保管してはならないものとすること。(第六条の二関係)

ご存知、単純所持禁止。

  • 第三 インターネットの利用に係る事業者の努力

インターネットを利用した不特定の者に対する情報の発信又はその閲覧等のために必要な電気通信役務を提供する事業者は、児童ポルノの所持、提供等の行為による被害がインターネットを通じて容易に拡大し、これによりいったん国内外に児童ポルノが拡散した場合においてはその廃棄、削除等による児童の権利回復は著しく困難になることにかんがみ、捜査機関への協力、その管理権限に基づき児童ポルノに係る情報の送信を防止する措置その他インターネットを利用したこれらの行為の防止に資するための措置を講ずるよう努めるものとすること。(第十四条の二関係)

「その管理権限に基づき児童ポルノに係る情報の送信を防止する措置」ねぇ。パケット監視でもする?

  • 第四 その他
    • 一 施行期日等

1 この法律は、平成二十年十一月二十日(国際連合において「世界の子どもの日」と定められている日)から施行するものとすること。(附則第一条第一項関係)
2 第二の二の1(自己の性的好奇心を満たす目的での児童ポルノ所持等についての罰則)は、この法律の施行の日から一年間は、適用しないものとすること。(附則第一条第二項関係

11月20日から1年経ったら、今年の11月20日で所持禁止。

    • 二 検討

1 政府は、児童ポルノに類する漫画等(漫画、アニメ、CG、擬似児童ポルノ等をいう。)と児童の権利を侵害する行為との関連性に関する調査研究を推進するとともに、インターネットによる児童ポルノに係る情報の閲覧の制限に関する技術の開発の促進について十分な配慮をするものとすること。(附則第二条第一項関係)
2 児童ポルノに類する漫画等の規制及びインターネットによる児童ポルノに係る情報の閲覧の制限については、この法律の施行後三年を目途として、1の調査研究及び技術の開発の状況等を勘案しつつ検討が加えられ、その結果に基づいて必要な措置が講ぜられるものとすること。(附則第二条第二項関係

児童ポルノに類する漫画等(漫画、アニメ、CG、擬似児童ポルノ等をいう。)」とあるのは、それらが実在の児童を描写するもので無く、法律上「児童」は実在する人間に限られるので児童ポルノと定義できないから「類するもの」と表現するしかないわけですね。
なんか3年で研究して検討するとか書いてあるな。関連性に関する調査研究とやらがどんなものになるのか不安だ・・・

法律系サイト

e-politicsってサイトに児童ポルノ規制法案のページが有ります。

与党案の「単純所持規制」を導入した場合、 法改正後は、法改正前に入手したものでも違法とされる「児童ポルノ」を所有していた場合逮捕されます。
憲法39条「訴求処罰の禁止」は、国民の予測可能性や行動の自由を確保するという自由主義の理念によって支えられている原則のため、与党案が通れば、憲法39条「訴求処罰の禁止」に違反した立法であるという指摘もされています。

この件に関しての法解釈は、 所持罪は継続犯であり、 単純所持罪の施行後の所持については、新規に単純所持罪が成立して遡及処罰される訳ではないという解釈になるようです。

そのため、法解釈上は憲法問題をクリアできるので、実質的な遡及処罰であっても「単純所持禁止」を主張する与党案と、憲法の趣旨に沿って実質的な遡及処罰をせずに取得罪の創設によって代替する民主党案の間で違いが出ています。

というわけで「厳密には遡及処罰じゃないからOK」の自民党と「実質的に遡及処罰で問題有り」の民主党で法案の中身が違いました。
「国民の予測可能性や行動の自由を確保するという自由主義の理念」ならば民主党案しか有り得ないでしょう。実質的には突然処罰されるけど解釈上問題になりませんだなんて、それで済むならこんな憲法いらないだろと。

創作物への表現規制を前提とした調査に関する引用で触れた高市早苗議員及び公明党の回答にある「規制を前提とした調査」を法案に盛り込んだ場合、その程度によっては憲法21条で禁止されている「検閲」に当る可能性が出てきます。

この場合の論点は3つのレベルに分かれます。
(1)狭義の「検閲」に該当し、憲法違反の可能性があるという問題
(2)狭義の「検閲」には該当しないが、国家が情報に線引きを行うという「表現の自由に対する制約の一般的なあり方としての是非」としての問題
(3)日本の場合は、法的根拠がなくても「お察し」による実質的な検閲機能が働くため、過剰コンプライアンスによる文化の衰退を招き、コンテンツ産業に壊滅的打撃を与える可能性があるという問題

(1)から検討していくと、ポルノは「思想内容等の表現物」なのか?という議論はありますが、そのような表現物を目にして不快になる人がいる事からも、「思想内容等の表現物」として捉える事が可能です(なぜ不快になるのかという説明は、女性学的な見地からの説明で関連項目を参照して下さい)。
この場合、最高裁の「検閲」の定義を引用して定義に当てはまるかの検討で「これこれだから、検閲に当たる」という論にもっていき、規制を正当化するようなデータや統計が存在しない事(その事は政府も答弁で認めています)と合わせて訴訟を行った場合、違憲判決が出る可能性があります(実際には、多大な費用と時間をかけて違憲訴訟を戦う人はいないと思いますが)。

後述されるように検閲には当たりませんが、国家が表現に踏み込むというのはそれ相応の根拠が求められるもんです。国家権力が個人の自由を制限するのだから。

立法事実とは、人権制約規定を正当化する社会的事実を意味します。
憲法訴訟において、人権制約規定の合憲性が問題になった場合、立法事実の存否が検証されるわけです。
具体的には、人権制約の目的は正当か、人権制約の手段は相当か、目的と手段との間に牽引性が認めらるか、などについて、それを支える立法事実が検証されます。
立法事実の存在に関する証明責任は、規制を正当化する国側にあります。国側がそれを証明できなかった場合には、当該人権制約規定は違憲であると判断されます。

上記の説明について、学問的なものではなく、法律家の視点で見ても妥当なものかを弁護士の方に質問した所、「教科書の回答としては正解。ただし、 ある事実が立法事実足りうるかの判断は判断権者(立法者、裁判官)の裁量によるものが大きい 」という趣旨の回答をいただきました。

立法時に要求される立法事実の厳格性の程度に関しては、制約される人権の価値・序列によって決まり、概ね以下のような序列が用いられています。
(1)強い保障の精神的自由
(2)弱い保障の精神的自由
(3)強い保障の経済的自由
(4)弱い保障の経済的自由

http://www7.atwiki.jp/epolitics/pages/189.html#id_86c078d1

(2)に関しては、狭義の検閲には該当しないけれども、「表現の自由に対する制約の一般的なあり方としての是非」としての問題になるという点です。憲法の法解釈としての「検閲」という概念は、ある物を出版の前に国家機関が審査し、場合によっては発行禁止処分にすることをいいます。そのため、仮に表現規制を導入した場合でも、憲法の法解釈上の論点としての「検閲」には当たらず、国家や国家機関が情報に線引きを行い「思想・良心の自由」「言論・表現の自由」を侵害するという「表現の自由に対する制約の一般的なあり方としての是非」の問題になってくるという考え方です。

国家が個人の表現に対し「これは良い・これは悪い」と判断することになるわけですから、何に利用されるかわかったもんじゃないという怖さがあります。

民主党案は、所轄官庁を(犯罪取締りを行う)警察庁から(児童福祉・児童保護を行う)厚生労働省に移管し、社会保障審議会による被害児童に関する
施策の定期的な検証・評価の実施、厚生労働大臣に対する意見具申を行うという提案をしています。

本来児童保護を目的とした法案なんだからこれで良いように思いますねぇ。
誘拐された児童が監禁されてる所へ突入するとかっていうなら警察庁じゃないとダメかも知れないけど。
規制する根拠の薄さについても資料を交えて触れてます。

「風紀を乱す猥褻物」に該当する雑誌等がコンビニで売られているケースもあるという事は事実ですが、一般の方が「児童ポルノ」と聞いてイメージする「小学生・中学生を虐待している雑誌・写真」を取り扱っているコンビニというのは、どこにあるのでしょうか?

未成年で過激なのは見つからないと思うぞ。

日本での「市民運動」をしている団体の場合、 日本の状況を国際的に批判させて自分達の主張に国際的な権威をつけようとするため、国際会議などで主張する統計数字や事実は主観的で過大評価している事がほとんどです。

これは児童ポルノに限った話ではないけどね。まぁ案の定という。

 性的搾取の中でも、状況が悪化しているのが児童ポルノの問題だ。米国では、認知された児童ポルノのサイト数が2001年に2万だったのに対し、06年には34万と激増。準備会合では、日本も児童ポルノのサイトが多数つくられている国の一つとなっている現状が指摘された。
 国際NGO「ECPAT/ストップ子ども買春の会」共同代表の宮本潤子さんの報告によると、05年3月〜06年10月の集計で、日本は、米国、ロシアに続き3番目に児童ポルノのサイトが多い国という(ECPATスウェーデンホットライン調べ)。

上記の数字に関しては、日本のみイラストを「児童ポルノ」として統計に入れた疑いがあるなど、統計数字の出し方への疑問が指摘されています。
1998年、日本に「児童ポルノ」の法規制を求める際のICPOの主張では「世界中の商業サイトで見ることのできる児童ポルノのうち80%にもあたるものが日本からのもの」との事でしたが、その事自体が規制を求めた「市民団体」の主張する数字で、同時期に「カナダの税関を通過している児童ポルノのうち80%に当るものが日本製」というICPOの出した数字と一致しています。

違う基準のデータをひとつのグラフにするようなことやっちゃダメだよな。例えばある年齢層だけのデータと全年齢のデータで比べるようなもんだ。比較する意味が無い。

「インターネット・ウオッチ・ファンデーション(インターネット監視財団)の調査では、一九九七年に日本は世界シェアの二三%だったんですが、二年後の九九年には二%に減少しています」

法規制を訴えてから随分減ったらしい。
再び法案の問題点に関すること。

 さらにウイルスのような形で、「自動えん罪プログラム」を作ることも可能だろう。PCに潜み、定期的に大量の児童ポルノをユーザーの気づかないフォルダに長年にわたり蓄積し、ある程度年数が経ったところで警察に匿名で通報するようなプログラムである。この法改正で、児童ポルノ法は不特定多数の人間を無差別に社会から葬り去る、「究極の情報兵器」となりうるのである。

この点に関しては、法運用面でのリスクを完全に排除する事はできなかったため、与党(自民・公明)案でも早川修正案が一部採用され 「自己の性的好奇心を満たす目的」での児童ポルノの所持に限って処罰対象 となったため、「究極の情報兵器」で処罰されるリスクは無くなるようです。
民主党案に関しては、「単純所持規制」は入っていませんので、元々この種の問題は発生しません。

送られてきただけなら大丈夫ですね。ブラウザのキャッシュとかも心配無くなったと。
ただし、自分で手に入れたものは「自己の性的好奇心を満たす目的」と判断される可能性が有るので、自民党案だと「芸術かポルノか」みたいな問題は健在です。

「若い夫婦がブログで行っている育児日記で子供の裸の写真をアップした場合」については、3号ポルノの性欲刺激要件が問題になりますが、一般人基準で判断するといいつつ、0歳児の裸で興奮する人も少なからずいるので、それを一般人に取り込んでしまうと、一般人基準で性欲刺激するという認定が可能です。奥村が知る限り、0才の児童ポルノ、6才の児童ポルノが認定されています。

「単純所持禁止」が導入された場合、子供の写真を「提供」ではなく「所持」しただけで罪になるようになってしまい、多くの方から懸念が寄せられていましたが、この懸念は立法段階で基準を明確化しない限り払拭されませんでした。

この懸念を受けて、与党(自民・公明)案でも早川修正案が一部採用され 「自己の性的好奇心を満たす目的」での児童ポルノの所持に限って処罰対象 となったため、立法段階での基準の明確化で対応が図られるようです。
民主党案に関しては、「単純所持規制」は入っていませんので、元々この種の問題は発生しません。

えーと、つまりナニですか?「ロリじゃ勃たん!」アリなの?写真自体じゃなくて、写真持ってる人が怪しいか怪しくないかで判断されるんですか?それとも入手した経緯とかで判断する?
イマイチ判然としませんな。

児童ポルノ法」制定当初はこれも法案に盛り込まれいたはずですが、今では少しも触れられていないそうです。
民間NGOで、児童虐待防止キャンペーンを行ってる「オレンジリボン」運動などもありますが、そういった活動をしている団体のサポートをするなどの声明が一切無いという点も指摘されています(この活動に関しては、日本ユニセフ協会は協賛団体のメンバーではないそうです)。

日本ユニセフはなんかやれよ。

法律が予定しているのは、責任は加害者に、被害者ケアは「関係行政機関」にという体制である。交通事故にたとえると、責任は加害者にあるが、治療については救急医療体制が整えられて医療機関が行うこととされているのと同じである。
 ところが、児童買春(かいしゅん)被害については、法律上体制が義務づけられているにもかかわらず、実際に「関係行政機関」がケアを行うことはない。

http://d.hatena.ne.jp/okumuraosaka/20080526/1211755257

 児童ポルノ・児童買春の被害者は、条文上存在するが、実際には姿が見えない。国や自治体は救済しないし、国内のNPOも声高に規制を求めた割には全く救済に動かない。謝罪に向かった弁護人は被害者からそういう状況をさんざん聞かされる。
 だから、被害児童は救済されないんですよ。
 単純所持罪とか二次元を規制しても、救済する気がないんだから、救済されない。

http://d.hatena.ne.jp/okumuraosaka/20080607/1212795452

犯罪被害者というのはえてしてそういうものなんでしょうね。しかし対象が児童という弱者なので人権問題としてはより深刻と。
そもそも児童ポルノ法とは何の為にあるか。

そもそもの問題として、児童ポルノ法が制定された大きな動機は東南アジアでの日本人男性の児童買春問題でした。
この事は、創作物規制を主導する警察庁の「バーチャル社会のもたらす弊害から子どもを守る研究会」座長を務めている前田雅英教授も認めています。

ですが、制定当初の「児童ポルノ法」は、日本国内で社会問題と化していた「援助交際」対策としての側面が強く、そういった事を法律の基盤に据えた枠組みでは、東南アジアでの児童買春問題は解決しないとして、エクパット・ジャパン・関西からは「子供の権利」を守るための対案なども出されました。

ここまではいい。

その後の「児童ポルノ法」制定を求めた各種団体の活動ですが、「日本ユニセフ協会」は 1999年より今後の取り組み課題として「絵」の規制及び「単純所持規制」を目指して活動をしています (子ども買春、子どもポルノ等禁止法案、成立!(1999年5月17日))。
一方、エクパット・ジャパン・関西は「現行の「児童ポルノ法」は枠組みそのものがおかしいので、問題は解決されずに危惧した通りの現状になっている」として、「児童ポルノ法」を発展的に解消して「子ども性虐待禁止法」の制定を求めた提言を2003年に発表しました(法律改正 やっぱり「子ども性虐待禁止法」を!)。

児童ポルノ法施行後、10年が経過しようとしていますが、その間におけるそもそもの問題であった東南アジアでの児童買春問題はどうなったのかについては、「青少年問題に関する特別委員会(2008/04/10)」で民主党吉田泉議員が質問した結果、これまでの統計は以下のようになっているという返答がされました。

 平成十一年十一月の児童買春、児童ポルノ禁止法施行後、平成十九年末までに検挙いたしました児童買春事件の検挙件数及び検挙人員は、一万二千二百三十五件、八千百三十七人、児童ポルノ事件の検挙件数及び検挙人員は、二千五百五十五件、千八百二十五人となっております。
 特に、児童ポルノ事件につきましては、平成十七年から検挙件数、検挙人員とも大幅に増加をし、現在まで高水準で推移をしております。この増加につきましては、平成十六年の同法の改正による取り締まりの強化などが要因の一つとして挙げられるものと認識をしております。
 また、 国外犯の検挙状況につきましては、これまで、タイ、カンボジア、フィリピンでの日本人による児童買春、児童ポルノ禁止法違反事件で十件、十六名を検挙しております。その内訳は、児童買春事件が六件、六名、児童ポルノ事件が四件、十名となっております。

こういった状況の中、現在「児童ポルノ法」は改正が検討されていますが、法改正に向けて「日本ユニセフ協会」が中心となって行っているキャンペーンの内容は、「アニメ・漫画・ゲームも「準児童ポルノ」として違法化訴えるキャンペーン MSとヤフーが賛同(2008/03/11)」といったものになっています。

エクパット・ジャパン・関西」にとっても日本ユニセフの迷走っぷりは害悪なんじゃないのかね。二次元規制を訴えてエクパットの望むような児童の性的虐待防止に繋がるか?翻って現行法でも検挙件数が増えているなら改正すら要らないのでは?
下手に規制するとこんなに余計な問題が発生する。

「単純所持規制」を導入した英国では「Operation Ore」、豪州では「Operation Auxin」という大規模な児童ポルノの摘発作戦が実施されましたが、「児童ポルノ」という性質上、例え無罪になっても社会的評価を著しく低下させられるため、作戦では容疑をかけられた時点で多くの自殺者が出ています。

「社会的抹殺」ですよ。勘弁しろっての。
大体自分達でどんな法律作ってるのか解ってない。

民主党の会議では「もし、30歳の女性が子供の頃に撮影したヌード写真をブログにアップした場合、児童ポルノとして処罰対象になるのか? 仮に、そうであれば一体誰の人権を侵害したことになるのか?」と質問しました。
これに対して、法務省は、「子供の人権を侵害したとして処罰の対象になる」と回答しました。そこで「成人の女性が、自己決定で公開したものが誰かを傷つけていることになるのか?」と聞いたところ「本人は傷ついているハズです」と答えるのです。

http://ameblo.jp/mangaronsoh/entry-10076351373.html

議員立法なので、まず議員が解釈示さないと、法務省もわからないんですよ。 いま、議員に聞いてもわかる人いない。議員がわからないからって、最初からわからない法務省に聞くというのは、これまた無責任な話です。施行以来、議員が解釈深く考えないで、現場に投げて、現場が困っているという状況です。
奥村は以前、律儀にも提案者の国会議員(元検事)に条文解釈を聞きに行って、なんで私に聞くのですか?なんで私が答えるんですか?国会が決めたことですよ。国会に聞いて下さい。って怒られました。(で、国会に聞こうと、両院の法制局に問い合わせても、「議員立法なので、議員に聞いて下さい」と言われました。)わかってないひとに聞くと、怒られます。議員立法なんてそんなものです。で、結局、裁判所が立法者意思なんて離れたところでフリーハンドでまちまち解釈しているわけです。

http://d.hatena.ne.jp/okumuraosaka/20080303/1204526863

なお、奥村弁護士によれば「30歳の女性が子供の頃に撮影したヌード写真をブログにアップした場合でも「子供の人権侵害」で処罰されるのか?」という質問に関する正確な回答は以下の通りになるようです。

「一般に福祉犯の保護法益は児童が健やかに成長する権利という一身専属的かつ処分不可能な保護法益であって、児童ポルノの流通によって多かれ少なかれ侵害される。 被害児童本人や保護者が承諾しても児童ポルノ罪の成否には関係ない。 」と説明すればいいわけで、これくらい奥村でも知ってるので法務省担当者の勉強不足(議員のレベルに合わせて適当に無知な人が対応した感じです。)。被害者の承諾の主張が退けられた裁判例を積めばわかります。

もうgdgdっていう。
そんなマヌケな有様で規制の内容がハッキリしないもんだから色んな所が恐慌状態に陥ってしまうワケだ。

児童ポルノ法」が制定された1999年には、法制定による過剰コンプライアンスとして「バガボンド」「ベルセルク」「あずみ」といった「文化庁メディア芸術祭受賞作品」の漫画までもが法規制の対象となると解釈されて店頭から消えてしまった「紀伊国屋事件」と呼ばれる騒動が起こり、出版社の編集の方によって 「法的根拠がなくても、「お察し」で流通が自己規制を始めたら、その時点で実質的な絶版」 という業界の現状を伝えた記事がNiftyに投稿されるなど、法律というものが立法者の意図から離れた解釈をされて一人歩きしている日本の実態を示す実例が投稿されました。

 山本直樹さんや榎本ナリコさんの単行本をはじめ、「バカボンド」や「ベルセルク」「あずみ」までが外れています。「やおいもの」などはもちろん、小説でも挿し絵などで18才未満と思われるキャラクターがそういった行為をしているように見られるものはすべて外してしまったようです。ちなみに写真集は18才未満が被写体となっているものは、水着写真でも店頭に出さないようです。
 「バカボンド」が外れたのは、物語の初めの方で、17才の武蔵が性行為に及ぶ場面があったからだそうで、「ベルセルク」は主人公が幼い頃に犯された場面あったのが引っ掛かったようです。他のものも似たり寄ったりの理由です。
 南館では、成人コーナー自体がなくなってしまいました。成人コミックといっても、未成年をキャラクターにしていないものも多いと思うのですが、まとめて消えてしまいました。
 今回の児童ポルノ法案では、漫画をはじめとするイラスト類は規制の対象外と思っていたので驚きました。
 日本中の誰に聞いてもエロ漫画とは思わないような「バカボンド」までが対象となるなら、現在日本で出版されている青年向けコミックはほとんどがアウトでしょう。

こういった行動の背景になっているのは、流通側の「見せしめのための摘発も充分に考えられ、それが社の大きなイメージダウンに繋がりかねない危険性があります(紀伊国屋書店)」という意識です。

流通は表現者自身程の覚悟を持てないし、作り手が踏ん張ったとしても表現する場所の方が無くなってしまうという問題があるんですね。
で、これからどう方向付けるのか。

 立法作業中には、猥褻なゲームやアニメも規制対象にするべきだとのご意見も、多く寄せられました。
 そもそも現行の「児童ポルノ禁止法」は、被写体となった子供の保護・権利擁護を目的としていることから、実在する子供が被写体ではないゲームやアニメについてまで同法の改正案によって対象に加えることは、現段階では立法技術的に困難だと考えました。
 しかし、児童ポルノ禁止法改正案を作った与党プロジェクトチームのメンバーも、「子供を性の対象とする社会的風潮を助長する可能性が高いアニメ等」が流通しているのは事実だと思っています。
  将来、児童ポルノ禁止法の「目的」の見直しを含めて同法改正で対応すべきなのか、別の法律で対応すべきなのかの議論も含めて、与党改正案では「政府の調査研究課題」と位置付けました 。

法律で規制する根拠を考えるのは難しいが調査してなんとか規制しましょう、という研究するんですか?

 一方、アニメやコミックなど、いわゆる「みなしポルノ」の取り扱いについては、 公明党は「禁止行為とすることが望ましいが、『みなしポルノ』と性犯罪との因果関係を示すデータが存在しないため、国として調査・研究を進めてはどうか」との問題を提起した 。

禁止したいけど丁度良いデータがないから都合良く見つかるまで調査しよう、ですか?
やっぱり信用できないな。

  与党の改正法案では、「児童ポルノの定義」については変更を行っておりません。 したがって、「児童ポルノ」の範囲が新たに拡大するものではありません。つまり、単純所持禁止の対象となる物も現行法と同じです。
 現行法第2条3項に基づき「児童ポルノ」の例を挙げますと、「性交や、性交に類似する手淫・口淫・同性愛などの行為を撮影したもの」、「児童の性器を触る行為、児童が大人の性器を触る行為を撮影したもので、性欲を興奮させ刺激するもの」、「全裸や半裸の児童に扇情的なポーズをとらせて撮影したもので、性欲を興奮させ刺激するもの」です。

同性愛・・・?リアルやおいかと思ったけど百合もあるか。
とにかく現在規制されているものをどういうワケでか持ってるとアウトだと。
で、それは、まず実在の児童(18歳未満)であり、上記のような明らかに性的興奮を起こすものだと。・・・アレ?まともだぞ?
ってなこって、色々見ちゃきたものの、結局良くわかりませんねコレ。どうなの?
間違いないのはしっかり見張ってないと新たに恣意的運用を可能な法案にされかねない、油断できないってことぐらいか。
自民党の中でも議論は有るし、野党は軒並み反対という感じなのでそう簡単におかしな法案にはならないようでもありますが、関心を持って問題を指摘する人達がいなければそうはいかなかったかも知れません。引き続き見守るべし。

イルカにカンガルー?自然な出産?

分娩のひとつの方法として水中出産を行うところがあります。自然分娩のひとつの方法として広まっているような面もありますが、人間は陸生動物であり水中で出産することは「自然」ではありません。水中出産は自然分娩ではありません。

こんなことわざわざ書かなくちゃいけないなんて・・・

「4日間水中分娩を行って」子宮内感染をおこし、「重症感染症のため,日齢5新生児死亡」。 よっぽど病院のごやっかいにはなりたくなかったんでしょうね。  繰り返しますが、これは「妊娠初期より助産所で管理されていた」「助産所からの母体搬送」例です。

http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/weblog/index.php?UID=1243559151#CID1243565029

出産に伴う感染症は洒落にならない。昔はこういうので沢山死んでたんですね。

水中出産が不自然だというのは、本当に仰るとおりです。
『人間はカバではないのだから』と仰る産科医の方もいました。
しかし、産科医の方の中でも意見の割れるところなのか、推奨している施設は実際にあります。

水中出産、それも自宅で、更に無介助でと、ミクシー内でもコミュがありますね。
恐ろしいです。

ある方からのご報告で、自宅出産での水中出産をされた方が、予後に問題が生じてしまい、保健所に通告したところ、
『自宅出産は管轄外』
といわれたそうです。
この方はきちんと助産師の介助をしてもらっていました。
しかし、不衛生な器具を使ったりしています。
それでも、自宅では管轄外なのです。

http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/weblog/index.php?UID=1243559151#CID1243564850

「管轄外」って一体何がどうなるんだ?

なんというか、産褥熱は医師が手を消毒すれば防げるというゼンメルヴァイスの発見はもう150年も前の話なのに、どうなってるんどしょう。
直感的には「水中」は衛生上かなり危険に思えます。そして、ゼンメルヴァイスは要するに「不衛生な出産は死の危険と隣り合わせである」ことを示したわけです。衛生の問題をクリアしつつ水中でとなると、かなり大掛かりな設備がいるのではないでしょうか。

「水中」指向は、まったく理解できません。

http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/weblog/index.php?UID=1243559151#CID1243566849

産褥熱なんて昔の言葉に聞こえるのに。水中出産で復活なんてことになるのはバカらしい。

私が第二子以降を分娩した大きな病院では、水中出産を推奨していました。(今はわかりません)
上記で書いたように、別の産科医の方と話して、そこでも推奨していると伝えたら、
「あのくらい大きな病院なら、消毒はしっかりとされているから大丈夫だろう」
というようなご意見でした(消毒以外の点でも、マンパワーなども含めて)。
実際に病院で使われている水中出産用の風呂は組み立て式で、その都度、しっかりと洗浄、消毒がされています。
助産院の中には、普通の風呂で行われている場合もあり(自宅は当然)、そうなると、殆どの風呂の構造上、細部にまでの洗浄も消毒も不可能です。
ただ、水中は最初は綺麗でも、母体にはどんな菌がついているかもわからないし、場合によっては旦那さんや助産師の方が加わるわけですから、どんんだけ消毒しても、回避仕切れる問題ではないですよね。

消毒だけの問題をとってみても、自宅や、助産院では無理ではないかと言っていました。
特に自宅となると、集合住宅だとタンクの不衛生さはどうしようもなく、風呂の構造だけではない問題もあり、かなり危険だそうです。

しかし、その不衛生さを松の成分で…とかと、アロマ程度でなんとかしようとしている事実があります。
(松以外も使われています)
それを助産師が指導していることでもあるのです。
(無介助分娩の場合でも、情報源は似たようなものです)

http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/weblog/index.php?UID=1243559151#CID1243568884

自宅の風呂にアロマオイル・・・プロのやることかソレ。

仮説のひとつ「生後間もない幼児は水を怖がらず、水中で反射的に息を止める能力を持っている」について。
「生後間もない幼児」というのがどの月齢かわからないのですが、普通「生後間もない」といえば「新生児」(生後28日まで)のように思いますが、この時期の赤ちゃんは、モロー反射があるのでお湯に入れようとすると反射でびっくりして泣き出したりします。その状態で「水中では息を止める能力があるから」と、かまわず顔をお湯につけたら・・・あえいで窒息すると思います。

http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/weblog/index.php?UID=1243559151#CID1243571079

新生児の肺呼吸がどのように開始するか、まだはっきりわかっていません。出生時のさまざまな感覚的刺激(冷感、低酸素)や、産道外へ出ることで胸郭の圧迫がとれるためなど、考えられています。

呼吸運動だけでなく、「あえぐ」様子も見られます。声は出ていないけれど「呼吸をしそうな」動きですが、母体から顔が出ただけであえぎが見られる赤ちゃんもいますし、顔を出しただけで「おぎゃー」っと第一呼吸を始める赤ちゃんもいます。
水中では、声はださなくともあえいでいる可能性はあります。
水中分娩の記事を読むとみな水中から上がったら元気に泣き始めたというものばかりなのですが、きっと苦しい目にあった赤ちゃんもいるはずです。

ヒトはやはり、母体から出たらすぐに空気を吸えるほうが良いと思います。


お産の児頭娩出間近になると、お母さんの肛門は児頭で押されて哆開(しかい)します。当然、大腸菌とかお湯に混じります。
いまだかつて、肛門をしっかり閉じたままお産になった方を見たことはありません。

危険ばかりじゃないの。

「育児文化研究所関係の死亡事例は六県にわたっており、七事例を知ることができました。このように件数が整理されております。この六県にわたる七事例については、子供は死産または新生児死亡という診断で全員亡くなっておられる。母体についても大出血で病院搬送、また一人は精神不安定の状態になっているというような報告がなされております。[中略]
 このような未必の故意が疑われる案件が多いにもかかわらず、難解なのは、児が死亡した場合、母親自身、自分が未熟であるために子供が授からないのだ、そのことは母親である自分が悪いという洗脳とも思われる指導があり、父親、母親ともに被害者としての自覚に乏しく、事故後も会員であり続ける例もあり、今後もこのような事故を起こさないような保証がない案件なのではないかなと思っております。」

反社会的カルトと断言する事に躊躇する必要を認めず! ...と、思ったら、なんとこの「研究所」、と学会のお墨付きでした。
「おっと、名称に騙されてはいけない。この育児文化研究所、実はUFOカルト団体なのだ。UFOに乗った宇宙人が人類を救いに来る、といったことを、セミナーを受講しに来たお母さんたちに大真面目に教えているのである。」ートンデモ本の世界で山本弘さんが書いておられた。 まだ妊娠もしていない胎児との対話も可能と主張している、アレだったんですね。 こんなバカにそそのかされて水中出産をして、子供を...

とにかく「信じる」人はなんても信じちゃうんですね。 まさかここから UFO につながるとは思わなかった...

http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/weblog/index.php?UID=1243559151#CID1243613356

「育児文化研究所」はUFOカルト・・・

この育児文化研究所からは、紙おむつやめてという本も出てますよね。
http://www2.dango.ne.jp/ikuji/ikuji3/sensei/books.htmlLink

今までの常識が通用しない世界で混乱している妊婦や乳児を抱えているおかあさんたちに、布オムツ奨励とか母乳で子育てという、育児産業でよく使われている手法から近づかれると、本人も気づかぬうちに別世界に足を踏み入れてしまうのだと思います。

http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/weblog/index.php?UID=1243559151#CID1243647245

酷い、酷すぎる。こうして段階的にニセ科学の深みへはまっていくんだなぁ。

胎児が娩出され、胎盤・卵幕が娩出されると、子宮内膜は血管の断端が露出した大きな傷と同じ状態になります。水中出産では、その状態に大腸菌などが混ざったお湯が直接触れることになります。
また、卵管を通して、そのお湯などが腹腔内に入る可能性もあります。
「自然な状態」で卵管から腹腔内に外部のものが入る状況はあり得ません。また、裂傷部も菌に汚染されることになります。重症化しやすい条件が重なります。

分娩での母体死亡をゼロにできない理由のひとつに、「羊水栓塞」という致死的な状況の発生があります。胎盤が娩出したあと、胎盤が脱落したあとの血管の断端から羊水の成分などが母体の血流に入り、血栓を作ってしまうのです。本当にまれな疾患です。水中出産では、その状態を起こしやすいといわれています。

水中出産では、介助者が児を受け止める場合もありますが、たいがいは「母親が自分で赤ちゃんを取り上げる」ことに意味を持たせています。
通常は、赤ちゃんが生まれ、胎盤が出て・・・その状況の時に、大出血の可能性をいつも頭に入れながら介助しますが、水中ではその観察が遅れます。出産後の異常出血は、1〜2分間であっという間に500ml以上の出血になります。水中から、産婦さんを引き上げて出血に対応するまでに、おそらく1L以上の出血になります。通常、1.5L〜2Lの出血になるとICUの管理が必要になる可能性が高くなります。

以上のように、子宮内感染、出血、羊水栓塞が母体側のリスクです。

新生児側は、第一呼吸が遅れることによる新生児一過性多呼吸、感染による敗血症です。
ヒトが羊水中から出て、肺呼吸をするというのは最も劇的なことでこれが安定しないと赤ちゃんは、自分の体温を維持することも、おっぱいを吸うこともできません。呼吸が安定しないと、がたがたと全身状態が悪化していきます。
分娩台で、おかあさんに抱かれて家族の祝福を受けて「鼻が低いわね、誰似かしら」など喜びに満たされている間も、スタッフは常に赤ちゃんの呼吸が安定しているか確認しています。

新生児の感染には生まれて数時間ぐらいから症状が出始める早発型と、レジオネラの症例のように数日以降発症するものとあります。新生児は感染に対する抵抗力が十分でないので、敗血症や髄膜炎をおこします。
呼吸障害と感染が合併すれば、赤ちゃんにとってはかなり厳しい状態だと思います。

http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/weblog/index.php?UID=1243559151#CID1243657674

なんというハイリスク出産。くわばらくわばら・・・

カンガルーケアーについても、「自然」「不自然」の考え方が錯綜している印象です。

NICUの早産児のように生まれたときから保育器内で呼吸器やモニターに囲まれた赤ちゃんには、ひとの肌のぬくもりを感じる機会があるというのはとても大事だと思います。この場合、モニター類を装着した上での抱っこなので、安全の確認が行われています。

http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/weblog/index.php?UID=1243559151#CID1244080841

これぐらいならアリかな。

出生直後の新生児を、室内で(母の体温とタオルをかけて保温しても)裸のままにしておくことによる低体温と、腹ばいの状態での呼吸抑制の危険がカンガルーケアーの危険な点ではないかと思います。

出生直後の赤ちゃんの状態は、一見元気でもほんとうにさまざまです。
産声のあとしっかり呼吸が安定して「泣かない」赤ちゃんもいれば、胸式・腹式の呼吸をしながら呼吸を整えていて「泣けない」赤ちゃんもいます。
腹ばいにすると胸部腹部ともに圧迫されやすいと思います。
「気づいたら真っ白になっていた」状態で気づくことが多いと思いますが、その時点で20秒以上の異常な無呼吸があったのだと思います。
NICUの場合、酸素濃度センサーをつけたままなので、未然に防ぐことができます。
カンガルーケアーを勧める研究会が、安全のためのモニター装着を提案していますが、モニターまでつけて実施して得られる「自然な」あるいは「豊かな」母子関係の早期確立とは、本当に必要なことなのか問いなおす必要があるのではないでしょうか。自然に生まれて問題のなかった赤ちゃんに、発見が遅れれば蘇生術が必要になるようなことは無意味以上のことのように思います。

余計なことして危険を増やすのが「自然」とは。
こちらはちょいと変わって胎盤の話。

弟の研究室に来ていた留学生の方のご実家が内陸部で病院をされており、そこで出産があった折にはご実家の方がゆでて食べられていると言ってたそうです。風邪をひかなくなるとか、そういう理由で昔からある習慣のように話していたと記憶しています。その留学生自身はそのことについてどう考えているかというと、リスクが高いので止めて欲しいと思っていると聞きました。彼が学位を取得して帰ると医科大学が造られ教授になるという話も聞いていたので、西洋医学の教育をうけた人が戻り、これから教育に当たっていくことによってこういう習慣は少しずつ無くなっていくかもしれませんね。

それとは別に、日本でごくまれにでもそういう行為が行われているというのは、もしかしたら古い習慣も一部にはあるかもしれませんが、あまりにも自然から離れすぎて自然を知らないような人たちが、自然っぽいものにあこがれてやっているのかもしれませんよね。

http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/weblog/index.php?UID=1243559151#CID1244096072

胎盤食べるとか。古い習慣じゃなかなかやめないだろうなぁ。風邪をひかなくなるというのは母なる力とかそういう類だろか。

牛のBSEに対し、羊のスクレイピーは感染性のある胎盤を食べることによって感染し、子宮内での垂直感染もあるとのこと。
動物が胎盤を食べることは自然なことでもありますが、自然は新たな疾患や感染物質をも作り出すものなのですね。

http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/weblog/index.php?UID=1243559151#CID1244176157

衛生検査してるわけじゃないんだから、食べるのは「食肉」と比べてリスクが高いよなぁ。

妊婦の死亡数は出産10万件あたり6件以下と極めて低い。
しかも死亡率が高かった頃と比べて出生数が減っているから、同じ割合で比較した場合に実際の数は少なくなる状態。1%でも1000の1%は10で100の1%は1。
さらに、一人が出産を経験する回数が減っているので、一人当たりのリスクも減っている。
・・・にもかかわらず。

なんというか、医療不信から謎の「自然なお産」を選ぶかたがたもおられるようです。最新の医療に頼らないのであれば、今のこの低い妊産婦死亡率の恩恵にあずかることはできません。

個人的体験のレベルでは「産科に行かずに自然にまかせたけど、問題はなかったよ」ということになるわけです。1000件中999まではそういう体験になります。ただ、そういう例をたくさん集めてくれば、実は死亡率が高いのだということがわかります。
 
自分が問題を感じなかったからといって、同じことを他人に薦めるとしたら、相手に数十倍のリスクを押し付けていることになります。でも、たぶんほとんどの場合には問題が起きないでしょう。リスクを押し付けたことにも気づかないのでしょう。
個人的体験で語るというのは、そういうことです。

医療事故のリスクが嫌だから、なにか別の「自然っぽい何か」を選ぶというのは論理的に間違っています。

あるリスクのある行為を避けて別な行為を選ぶということは、別のリスクを選ぶことである、というのがわかってないのかなぁ。片方避けたら安心するみたいな。
人間て結構「何かやった」ということに満足してしまうから片手落ちになるわけだな。

多くの人が得る情報は、自身や口コミも含めた個人的経験と、マスメディアの流す情報がほとんどでしょう。そうすると多くの人にとって「個人的経験」ではない情報というとマスメディアの情報となってしまいますが、それはあまりまともではないし、むしろ事故がレアになるにつれてニュースバリューが上がってしまいますね。むろん、重要なのは信頼に足る統計情報であり、今は主体的に調べれば容易に得られる物ではありますが、この手の「被害者」はこういう物から遠い人達である様に思われ、そこが問題の難しいところかと思いました。

http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/weblog/index.php?UID=1243007559#CID1243022241

ニュースバリューか。リテラシー教育必要かねぇ。

国立感染症研究所感染情報センターのHPに麻疹の予防接種について、統計とその有効性が書かれています。
大阪周辺で流行した1999年は、麻疹による乳幼児死亡が約30人いらっしゃいます。このときの予防接種率が70数%です。
副作用の統計も載っていますが、H10年にワクチンが改良されて以来副作用の報告は半減し50例程度、その大半が発疹、発熱などです。
この流行翌年の大阪周辺の方へのアンケートでは、ワクチンに否定的な方は0.2%、ワクチン未接種だったのは保育園通園中や若い母親などで接種の機会を逸したことなどが理由とされています。

麻疹による乳幼児死亡は年によって大きく変動があり数人だったり、30人だったりですが、いずれにしても「個人の体験」では実感は得られないことでしょう。たとえ、小児科に長く勤務する医療従事者でも、体験する方は「まれ」だと思います。
私達産科に勤める者が、直接(他のスタッフの体験ではなく)自分自身が産婦さんの死や新生児の死に出会うことが少なくなったように。

反対に、予防接種や薬害の重篤な副作用例は大きく報道されます。
これは情報として必要で正しい部分もありますが、一般の方にはやはりネガティブな印象のみ残ることでしょう。「自分の子供が副作用にあったら」という方が、「自分の子供が麻疹で死ぬのでは」と想像するよりも現実に近そうな感覚だと思います。

http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/weblog/index.php?UID=1243007559#CID1243052872

放っておけば高いリスクが低くなることより、何もしなければゼロのリスクが新たに発生することの方が目立つんだよな。効果は前者の方が高くても。
ある薬を使ったからとかいう理由で新規に発生するものは「量」で評価しないで良いからわかり易いんだろう。

ちなみに以下は自然出産にとりくんできた助産師の正木かよさんの著書、「夫婦でいいお産をしよう」よりの引用です。

P32 自然出産の意味を勘違いしないで
...
今から二〇余年前、ラマーズ法による自然分娩を求め、出産場所として助産所を選んだ女性たちは、自分の出産は自分で獲得するものである、という信念で、妊娠中健康保持にも積極的に取り組んでいました。自然分娩を追求していても、決して医療を否定しているのではありません。「産む性である女性として自分に携わっている力を信じたい。そして、出産という大仕事を任せてみたい。もし、自然に進まない場合は、医療のお世話になりましょう。」と、出産をお手伝いする助産師と、出産する女性の共同で、安全で快適な出産を追求していました。
しかし、最近、自然出産とは、自然の成り行きに任せる出産だと勘違いしている人が多くいて、心配しています

http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/weblog/index.php?UID=1243007559#CID1243199858

あれま。自然出産の先駆者から批判されてんじゃん。
ちょっと危険の認識に絡んで地震の話。

阪神大震災について

当時、関西出身者になぜ関西では地震が起こらないと思っていたかたずねたことがあります。その中に、関東の方では、東海大地震が来るとずっと言っているのに、関西ではそんな警告もないから安全だろうと思っていた人もいました。
変に一地域だけ警告すると他の地域の人が安全だと誤認することもあるようです。

http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/weblog/index.php?UID=1243007559#CID1243213717

ある人が地震について関東と関西で同じ警戒水準だと想像しているとすると、あるレベルの危険を関東で警告して関西で警告しない場合、関西には危険が無いと感じてしまう、ということか。
さて「人工的医療」と「自然」の出産それぞれはどうか?同じ警戒水準だと想像していないか?「人工的医療」だけが警告している危険があるんじゃないかな?それは「自然」が安全だということにはならないのだ。

ちょっと話がずれていまいますがせっかくの機会ですので、助産院の活用について書かせてください。
産科医不足の状況ががようやく一般の方に浸透してきましたが、だから助産院の活用を・・・というのは、もしかすると周産期医療レベルを昭和30年代にぐらいに落とすことになるかもしれません。
現在産科の先生方の3分の1ぐらいが、60代以上の先生方と聞いています。その年代で、365日、24時間の体勢をとっていらっしゃる先生方がたくさんいらっしゃいます。
あと10年後、産科医が増えず減少した時に、「お産は助産師だけで大丈夫だから」と任されたときに、周産期死亡率はぐんと上がるでしょう。
「正常なお産」とは、出産がすべて終了した時に初めて「正常だった」といえることで、妊娠経過が順調だから「正常になる」とは言えません。
また、当然妊娠中のお母さんのさまざまな努力や信念とも無関係に起こり得ます。
赤ちゃんが無事生まれて、胎盤が出てほっとしたところで致命的な出血を起こすこともあります。医師と協働しているから、すぐに対応できて異常にならなかった分娩は相当な数だと思います。
出産中の急変、産後の出血は1分2分の対応が大事です。医療から距離があればあるほど、死へのリスクは高くなります。

「正常分娩は助産師で」というのは、戦前に「無資格者による介助ではなく助産婦で」という意味のスタートだったのだと思います。
「正常分娩は産科医がいなくても、助産師だけで」というのであれば、昭和30年代の母体死亡年間2000人の時代になることでしょう。

http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/weblog/index.php?UID=1243007559#CID1243225529

助産所には嘱託医が必要ということになってますが、つい最近まで、産科に無関係なお医者さんでもよかったんですよね。事実上、単なる名義貸しで、医療との連携が取れてないのが普通のようでした。
現在、経過措置として、地域病院による名義貸しを認めているようですが、これも連携が取れているとはいえないですよね。

おそらく、いわゆる助産所医療機関と物理的に離れているもの)は、日常の健康相談・管理に業務範囲を留めるのが安全なんじゃないかと思います。
お産が正常かどうかの判断は、地震予知と一緒で、結果論的にしかわからないようですね。例えば、お産の後で、胎盤とつながっていた子宮の血管がうまく閉じないと、大量に失血してしまうことになるようなのですが、それは、実際に問題が起こってからしかわかりませんしね。

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近くに産科医がいないとまずいなぁ。うちの近くの産婦人科も取り壊してしまったけど。10年後どうなってるのか。

私の家内も助産所にお世話になりました(出産は病院でした)。
育児のよき相談相手、という感覚でしたね。

助産所に足繁く通っている患者さんの中には、医師等の説明不足に起因する不信・不安を抱えている方が少なくありません。
こういう方々に、助産師が不適切な情報を吹き込むことで、その後の育児においても「予防接種は怖い」「抗生物質は服用しない」「自然万歳(なんのこっちゃ?)」という保護者が生み出されているという現実があります。
助産師がホメオパシーや個人的経験談(通ってくる患者から得た「自然」の成功談や、西洋医学への不信等)を不安を抱えている保護者に吹き込むとは、ビリーバーを生み出す絶大な効果を発揮していると思います。

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相談相手、ね。それは必要かも知らんが中には問題ある人がなぁ・・・まぁそれ言ったら医者にもいるか。

お母さん、赤ちゃんの悲しい死をできるだけ減らすためには、助産院を開くことではなく、産科医・小児科医を減らさないこと以外にないと思います。
現在助産院での出生は、日本の出産の1%程度です。助産師だって多くないので、助産院が産科医の仕事を減らせるほどの分娩は請け負えないでしょう。
助産院は300軒弱ですが、ゆっくりかかわれるお産のために月に2〜3件程度しか受け入れていないところが多いようです。これを「もっと助産院で産みなさい」となって分娩数が増えれば、助産院自体もサービスの低下となるでしょう。またそれだけ異常分娩になって搬送しなければいけなくなる割合も高くなることでしょう。

産科の先生方にしても、それまでの経過がわからないまま急変して搬送されてくるのを受け入れるより、妊娠中から関わっている方が早く対応できます。

医師ときちんと連携をとっている助産院もあると思いますが、助産院の非難ではなく、自分自身が開業することを想定したらリスクが大きすぎます。
助産院は医療処置ができない。
母子の生命を預かる場で、それは安全性と言う点で、それこそ致命的ではありませんか?
これだけ医療のリスク管理が言われている中で、たとえば嘱託医の病院に5分で搬送できる場所にすること、あるいは総合病院付属にすること・・・など、厳しい条件があっても良いのではないかと思います。
そして効果の不明な民間療法などを安易に勧めない、という条件も是非必要と思います。

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なんか深夜に受け付ける医療センターの話思い出すな。爆弾の導火線に火をつけて渡してくれるとかなんとか。対処不能な患者ばかり引き継がれてもたまらんわな。

お産ライターというような職業があったり、とにかく出産は、病院の外でお金になるものだとおもいます。
助産院では医療行為が出来ない、“私たちは見守るだけ”だというようなことを仰っているところが多いのに、病院並みの料金です。
自宅分娩は、結構な割合で助産院で産むよりも高いです。
流行つつあるという“プライベート出産”では、「ただいるだけの助産師にお金を払うのも損だ」という意識程度で選択してしまいそうになっている方もいます。
そこに、“神秘的”だとかという言葉を付け加えているだけです。
海辺で産むとか、実話であります。

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「出産は金になる」か。医療・健康に関わるニセ科学的なものは悪徳商法と結びつくってことで、「お産」も魑魅魍魎に狙われているわけだなぁ。全てが悪意ではないだろうけど、区別も困難だろう。

子供が死んだという経験がないことは幸せなことですが、人の不幸を聞いても『都合が悪い存在』としかおもえない人こそが不幸だとおもいます。
助産院が今のまま存続するのは問題が多すぎるとおもいます。
また、産科医療の崩壊を助産院が食い止めるとはおもいません。
助産院での事故を経験されている方は“自己責任”で苦しんで、公に出来ないケースが多いです。

自然出産コミュニティの話はなんか不気味だなぁ。自分達のコミュニティを守る為に危険を隠蔽するなんて、何の闘争してんだ?
それと知らず選択して後で身をもって危険を知るなんて最悪だよ。

第一子を産んだ町の産科医さんは駅前の大きなビルで、何十人という妊婦さんを抱えていると思うのですが、医者は一人だけで、とても大変そうでした。いざ出産の時も陣痛の始まった妊婦さんたちが順番待ちで、流れ作業的に扱われたり、しんどかったようで、同じところで産みたく無かったようです。近くの産科医で空きベッドを探したりしたのですが、なかなか見つからず、うちに出会ったのが助産院でした。
私自身や、弟の出産を見守った姉(へその緒は姉が切りました)にとっては良い経験でしたし、連れ合いにとってもゆったりとした気持ちで過ごせ、産後も楽だったようです。
このことが、自分たちにとって良い経験であることに代わりはありませんが、今回いろんな意見や、琴子の母さんのブログも見せていただいて、もし仮に、人にたずねられて経験を伝えるようなことがあったとしても、慎重に言葉を選ばなくてはと改めて感じました。

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混んでるせいで流れ作業的なのがイヤだから助産院。やっぱり産科不足だよなぁ。

無資格者が臍の緒を切るのは違法行為です。
看護師の内診問題を大騒ぎする助産師、助産院、助産師会がまず、自分達の行動を見直すべき項目でもあります。
もしもお姉さんが有資格者であれば別かもしれませんが、多分そうではないでしょう。

小さなことを、重箱の隅を突っついてとおもわれるかもしれませんが、臍の緒を切る行為を軽視していることへの警鐘も鳴らされています。
夫であろうと誰であろうと、無資格者が切るのは違法だということをマスコミもいうべきですが、テレビでも“素晴らしいお産”かのように臍の緒を切る場面を堂々と放映しているくらいですからね。

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なるほど。へその緒切るのも医療行為ね。

ここまでコメントされた方の内容を読んでも、「自然なお産」という言葉はとても幅広く人それぞれのイメージかと思います。

「自然なお産」には、市民運動的な背景、流れがあります。
70年代に医療の中での患者の権利への目覚め、医療消費者運動として病院でのお産への不信や批判が出始めました。
80年代には朝日新聞に連載された「お産革命」を機に、医療機器(分娩台を含む)に囲まれた「病院での産まされるお産」への批判、反対に「あたたかいお産」の助産院への期待が、自称バースコーディネーターという人たちの活動を通して、広がっていきます。
日本だけでなく、世界中で施設分娩への移行期だったので同じような運動があり、後押しされました。
90年代以降には、「自分らしいお産」ということでアクティブ・バースや水中出産、アロマセラピー、カンガルー・ケアー、さまざまな演出が広がっていきます。

病院は「不自然なお産」で遅れていたかというと、そんなことはありません。
もともと日本の産科の先生達はお産は助産師にまかせて生まれる時に登場されていましたので、私の病院経験でも経過が問題なければ赤ちゃんの頭が見える頃に医師を呼びます。
医師が必要以上に手を出すことはなく助産師に任されているので、助産院vs病院のような言われ方をすると、「私たちだって院内『助産院』だよね」と揶揄していました。
それが最近、36.TBNさんが紹介されているような、「新しいシステム」のように持ち上げられている院内助産院の語源です。
90年初めには、立会い分娩、母子同室もすでに多くの病院で取り入れていましたし、病院側もどんどん変化しています。

では、助産院と病院の分娩の違いは・・・となると、やはりどれだけ産婦さんのそばに付き添えるかというマンパワーの問題だと思います。
「人手不足」
「病院なんかで働いていられない」と辞める助産師の原因のひとつだと思います。
「病院ではつらいお産の間、ひとりにされた」「ゆっくり話を聞いてもらえなかった」
だから助産院はいいのよ・・・という方向になったのだと思います。

残念なのは、ここで病院はなぜ産婦さんや赤ちゃんに十分関われないほど人手不足なのか、どうしたら十分なスタッフが確保されて産む人も介助する人も満足できるのか解決しようという方向に行かなかったことです。
皆さん、新生児は入院患者数に含まれていないことをご存知ですか?
たとえば30人の入院患者さんと15人の新生児がいても、その病棟の入院患者数は30人としかみなされません。基準看護で看護スタッフの配置数はこの入院患者数で決まります。
「大事なわが子のために、是非看護スタッフをを多くするように改正してください」という声が高まれば、この「自然なお産」の流れも違っていたのではないかと思います。

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「医療消費者運動」「お産革命」「バースコーディネーター」そんな背景が。
同じ助産師でも病院だと忙しすぎて辞めてしまうというのはなんかおかしなことになってるな。

出産は病気ではないというのが現行医療保険制度の前提のため、新生児は患者ないので、保険上の入院患者としては算定しません。(NICUなどに入るような医療保険上病気として認められる場合には、入院患者として数えます)

出産にかかわる人件費は私費で全てをまかなわないといけないので、本来は配置基準とは関係ないはずです。ただし、本当の入院患者向けの治療があるので、そちらから最低限の看護師が決められます。病院が自己負担をもとめて適正な人数を配置するのではなく、いままでは、医療保険用患者の看護師で回してきてしまったのですね。
だいたい助産院と病院で費用が一緒というのがおかしいです。本当は病院側の費用はもっと高くなってないと。

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「普通に産まれた赤ん坊は健康だから看護師要らないよね」ってをい。どうにかならないのかこの制度。

長女は大学病院で生んだんですが、外来と病棟での勤務体制を一緒にして、急にお産が始まって病棟に上がっても、誰か必ず外来から見知った助産師さんがいる・・という感じにされてました。
やはりお産は心細いものですから、どなたか必ず、自分の細かい事情を知ってくれている人がいるというのは・・私にとって心強ものでした。

また持病を抱えながら妊娠してる方のハイリスク外来もあったので、
外来から患者さんには受け持ち助産師さんがいて、細やかに話をきいていたり、経過の気になる妊婦さんが外来に来ていると、受け持ち助産師さんは、病棟勤務の夜勤明けに外来にちょっと顔を出されて相談にのっていたりされていました。

二つ目の次女、長男を生んだ病院もいつも丁寧にDR、助産師さんとも話を聞いてくれて、産後は母子同室で、毎日かならずおっぱいマッサージを時間をかけてやっていただいたり、母乳についての相談もよくしてくれてました。私にとっては妊娠から産後の一ヶ月健診までも含めて、長いマラソンコースを伴走していただいた、アットホームな場所・・といった
感じでした。

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病院によって色々なんだなぁ。

そうなんです、前から疑問だったんですが「お産は病気ではないから
保険は適応されない」といわれますが
確かに疾病ではないんですが、身体にかかる負荷は疾病寸前の症状がでるよう思います。
悪阻だったり腎臓にかかる負担であったり・・それに出産には出血のリスクがともないますし、何より、お産は24時間いつ起こるかわからないものです。
対応するDRやスタッフも人手のいるものであるので、大切な人手の確保としてもっと産婦人科の診療報酬を高くして、産婦人科の方々の努力が報われるような体制になったほうがよいのに・・と思うんです。
安全を守るにはコストと人手がかかると思うのに・・。

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診療報酬のことを医療保険からの報酬ととらえると、保険の適用外なので多少増やしても、出産のための人員強化には向かいません。

ある程度の人数をちゃんと用意するのであれば、米国並みの100万円が妥当なんじゃないでしょうか。それを半額で請け負っているのですから、そのぶん産婦と医療スタッフとのやりとりにかける時間が減るのは当然でしょう。また、医師を雇わないですむ助産院は品質を落とすことで、患者との対話する時間を維持してるのでしょう。

ただ、各病院が適正な価格まで値を上げたら、ますます、貧乏人が代替医療に流れるだけな気もするんで難しいですね。

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産科関係のブログで、分娩1件にかかる費用は60万程度で多くの施設は持ち出し分が多いと書かれていました。

出産一時金は35万から38万になり、さらに40万ちょっとに値上げされます。(いい加減な数字ですみません)
これは、分娩があるかぎりゼロにはできない脳性まひの赤ちゃんとご家族のための補償制度が始まったためです。
3万円を妊婦さんが民間の保険会社に支払うという、ややこしいシステムです。国が最初から分娩費と補償制度に責任を持てばわかりやすいのに、やはり分娩は自費という方法を急激に変えられないからでしょうか。

院内助産院や助産所を賛美する背景には、自費で、医療費削減にもつながるからではないかと、思えます。

助産師の会陰切開・縫合を解禁しろという議論が、医療現場からでなく経済諮問会議というところで話し合われたことを考えると、あながち突飛な想像ではないのでは・・・と思います。
今、助産師が完全に独立しにくい理由に、会陰裂傷が起きた時に軽いもの以外は医師の縫合が必要であることが大きいと思います。
イギリスの助産師のように縫合術をできるようにすれば、助産師だけで完結できるお産が増えるので、医療資源を使わなくて済むということでしょう。で、経営には飲食業やらドラッグストアーなども参入OKという時代がくるかもしれません。

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なんつーかやっぱ医療費削減とか出てきますか。自己負担増やせば今度は少子化問題に繋がるしなぁ。貧乏人が病院に行けないなんてアメリカ並みの社会はイヤです。

冷たいのは病院ではなくて家族ではないかと思えるんですね。自宅だって家族が全く非協力的だったら冷たい雰囲気ですよね。病院が冷たいと感じるのは、他人の病院スタッフが家族の愛情の肩代わりまでしてくれるので、家族は何もしないでよいと勘違いしてるからじゃないかという気がします。病院が提供するのは専門的で安全なサービスで家族の愛情とは別種のものですよね。病院を利用すればそういうサービスが付加されるだけで、家族の愛情が減るはずはないのですが。

医者は冷たいけれど、ホメオパスは親身になって話を聞いてくれるなどというのも、なにか満たされないものがあるからじゃないかという気がします。詐欺もそういう心理に付け込むわけですし。

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高度な医療施設程患者の満足度が低いって話があったな。期待してる「サービス」の質が違うわけね。

まず、妊婦検診は14回の検診のうち
今まで5回の公費負担だったのに加えて、残りの9回を国と地方自治体とで半分つづ負担となるようです。
財政状況の悪い自治体もあるので、お住まいの場所によっては完全に無料化にならない場合もありえます。

駆け込み出産などの対策の意味もあるでしょうねぇ。
妊婦検診は赤ちゃんにとっても、お母さんにとっても大切だから
きちんと受けて欲しい事です。病院側だって患者さんの基本データをしっかり確認して妊娠の経過を知っておくことは、いつはじまるか、何が起こるかわからない妊娠中やお産にとって大切な資料になっているものでしょう。

そして、平成21年10月からは、各医療保険者から直接病院などに出産育児一時金を支払う仕組みになるようです。
出産費用踏み倒し防止の意味合いも濃いのでしょうか。

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をを、色々やってるじゃないの。だったら少し病院の費用が高くなっても良い?

医療者は、第三者
でも、家族とはちがうけど病院にいる、身近な第三者として
相談できたり、自分自身の位置確認みたいことさせてもらったり、
家族とは違う温度で牽引してもらったり・・とその第三者として
患者の家族だった私はフォローをいただいて助かっていたようにおもいます。
本来なら、患者さん本人が歩かれる道だから、ご家族と、医療者と
形の良い正三角形でお互いいられたら、良いバランスだと思うんです。
その家族とのバランスなどが何かの原因でくずれちゃうと、より不安が強くなって
過度に家族的なものを医療関係者に求めてしまうのかなぁ・・と。
その不安につけこむ不届き者がいるんだなぁ・・・と。

でも、やはり
一部ですが、キツイ発言の医療者や、心をどこかに置き忘れたような
医療者もいます。私も母の闘病中にでくわしました。
そういう一部の不届き者がニュースとして取り上げられると、また口コミ
とかで流れると、
一部が全体のイメージと刷り変わってしまうでしょうか。
病院でのお産が冷たい・・・というのもそういった刷りかわりのなかで
広がっていったんでしょうかねぇ。

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「身近な第三者」ね。そういうとこも求められるのがプロですか。患者が安心して協力的であるというのも大事なことだしなぁ。

幹細胞技術で逆転された日本

大きな可能性を持つ幹細胞技術、日本でも研究成果が上がっていたと思いきや・・・既に周回遅れらしい。

向こうだとNIHみたいに金と権限と経験とノウハウを持ったでかい組織があるが、日本にはそれがない。
文科省厚労省の中にどれだけPh.Dがいるかと考えたら仕方がないが。
つかポスドク余ってんだからそういう部分で活用すりゃいいのに。

研究支援体制も向こうの方が上だろう。
というか2008年度山中先生はどれだけ研究室に居られたんだろう?
あっちこっち講演やiPS細胞の研究ネットワーク作りで借り出され、メディアの取材に引っ張りまわされ、ろくに研究に打ち込めなかったのではと危惧しているのだが。

研究者の数も元々向こうのほうが多いのに加え、あちらの研究者は厳しい倫理基準で縛られ、足踏みを強いられていたというのも大きいと思う。
倫理面のハードルを越えるブレークスルーを今か今かと首を長くしていた向こうの連中が、iPS細胞の到来と共に鬱憤を晴らすかのように猛然とスタートを切った。
言葉を変えれば、あちらの研究者の多くに、そして幹細胞研究の進展を待ち望む社会の側にも、iPS細胞を受け入れる準備が万端整っていた。
だからこそたったの2年でこれだけ差が出たのだろう。

酷使様は騒ぐならこういうの騒がないとダメなんじゃね?
何が日本の底力か、って感じだなぁ。勿体無い。

ピースボートはツンバカ

まるで、「オープンソースこそ正義 ! Windows なんて要らない !」という原稿を、Windows 上で動作する Microsoft Word で書いていたのがバレたかのごとく (え

あれはピースボートが外国の船社から客船をチャーターして運航しているものだから、安全に関する責任も船社側にある。したがって、船社側が海自の護衛を受けたいといえば、ピースボートとしては従わざるを得ない。乗客の思想信条がもとで、船と乗組員を危険にさらす訳にはいかないのだから。だから、船社側が護衛を受けると決めた判断は正しい。

ただし、それは裏を返せば、ピースボートが唱える主義・主張には船社側を説得するだけの力はなかったということ。もしも、最初から船社に対する説得をしていなくて、船社側の判断に従っただけなら、なおのこと説得力のなさを当人達が承知していたということになりかねない。

常識的に考えて。船社ひとつ説得できなかったロジックでもって、果たして日本国民 1 億 2,000 万を説得できるのか ? それはどう見ても不可能。となると、日本国という同じ船を共有する国民に対して、あまりにも失敬な話なのでは。

ほんとバカだなーと思いながらオブイェクトのコメント欄を眺めていたわけですが。

なんすかこれ。

ピースボートの乗客のブログと言うのがあるのですが、そのブログ記事にとある港町の地名が出てきます。
一般には内陸国と思われているヨルダン唯一の港町アカバ

アデン湾を超え、公開の入口からシナイ半島の先端を東に上るアカバ湾のつきあたり。
そこにあるのがヨルダンの港町アカバ

そして、その対岸にはイスラエルの町エイラートを望むことが出来る。
さて、イスラエル批判をイスラエルを見ながら安全に出来る街を考えてみてください。

そして寄港地の地図。

南の喜望峰を回ったらアカバへは反対側から戻って行かないといけないので、ソマリア沖からまっすぐアカバへ行きたかったんですかねぇ。迂回したら結局時間がかかってしまうので、今イスラエルを叩きたいなら延期も迂回もできないと。
もしそれが本当なら、
イスラエルを叩く為なら自分達の信用が地に落ちても構わない
と考えているってコトですか?
バカなの?死ぬの?