今更ながら蒟蒻コラ騒動で思ったことを書いてみた

もう結構前になるが、マンナンライフ蒟蒻畑がパッケージに注意書きを加えたことに対して、その対応の過剰さ(ひいてはそのような対応をするまで追い込んだ消費者庁やメディア)を皮肉ったコラージュが広まり、意図が理解されずに非難される結果となり、ついに作者が謝罪するという騒動があった。

「お子様や高齢者は食べると死にます」…蒟蒻畑のコラ画像にTwitter民が釣られまくる → コラ画像作者が謝罪 | ニュース2ちゃんねる

常識的に考えればまともな企業が「死にます」なんてデカデカと書かれたパッケージで食品を販売するはずがない。画像の作者も謝罪文に「皮肉である」旨を書いている。

http://ideapad.jp/b350a73b/show/

私自身、蒟蒻畑が好物で、購入したパッケージをみて「絶対にたべないでください」の文言に、
いつも、もやもやした気持ちを感じていました。

それで「いっそ、こうすりゃいいだろ」という皮肉を込めた意味で、あの画像を作成しました

しかし画像が公開された当時の反応は様々なものがあって、中には真に受けてマンナンライフに問い合わせをする者もいたとかいないとか。このあたり正確に把握しているワケではないので、もしかしたら話に尾鰭が付いてるだけなのかも知れないのだけど、コラージュだとわかった時の「悪質なコラでした」と作者を非難するような反応はそれを想像するに十分だし、こういったまとめでも確認した者がいることになっている。

マンナンライフ 蒟蒻畑のパッケージコラ画像の拡散と収束?模様 - Togetter

蒟蒻畑ネタ画像の件
(1)マンナンライフのサイトの商品写真は当該メッセージのものに置き換わっていない
(2)画像を見るとメッセージ印刷エリア境界線が パッケージに対して斜めに走っている
(3)マンナンライフに問い合わせたという人が「事実ではない」旨の回答を受けたとの証言がある

よくある炎上騒ぎのようにマンナンライフが対応に追われるということがあったかどうかは知らない。マンナンライフの対応が話題になることは無かったことを考えると、大した影響は無かったのかも知れない。
それでも、過剰な規制を求めるような風潮に対する皮肉として「蒟蒻畑を愛好する人間」が作った画像であるのに、その蒟蒻畑を作っている企業の手をわずかでも煩わせてしまったというのは、何よりも作者にとって好ましい成果ではなかっただろう。
それに、こういった画像を見せて笑い飛ばせる人は最初から蒟蒻畑を問題視していない人だ。一方で真に受けてしまった人というのはどういう人なのだろうか?蒟蒻畑を問題視していて、マンナンライフが無責任に開き直ったと受け取り糾弾する意味で画像を取り上げたのではないだろうか?あの画像はマンナンライフにとってマイナスにしかならなかったと思う。
とはいえ謝罪文が本心とは異なる建前だということだって有り得る。騒がせることが目的で注目されればそれで良かったとか、面白いことを思いついたから作ってみただけで何も考えてなかったというのなら、目的はもう十分に果たしている。
ここで勘違いしないで欲しいが私は画像の作者を非難したいワケでは無い。端的に言ってあの「皮肉」は失敗しているし、失敗だから叩かれるのだという認識は持っているけれど、そのことによって改めて非難しようとは思わない。作者は失敗を受け入れ謝罪までしているのだからもう十分だと思う。不謹慎なジョークで怒られた、アレはただそれだけのことだ。
ここからが本題になる。

「騙される方が悪い」のか

この騒動を受けてこんな反応があった。
nabokov7; rehash : 蒟蒻畑コラ画像作者に謝罪させるような世の中じゃ、記者クラブだってクローズトなままだろう。

こんなの本気にする方がどうかと思うのだが、それでも「世間をお騒がせ」すると謝罪をしないといけないのが世の習わしらしい。いかにも日本らしくてくっだらねぇ。誰かが謝罪させたのか、作者が勝手に謝罪しちゃったのかは不明だけど、確かになんとなく騒ぎの責任を原作者に求めるような空気はあったようだ。リツイートの中には、騙された自分の情弱っぷりを棚に上げて「悪質なコラでした!」と追記しているものまで見うけられた。

こういう反応をしたくなる気持ちはわからないでもない。twitterではしばしば誤情報が飛び交う。安易に情報を拡散させておきながら自分の不見識は棚に上げ、「悪質なコラでした!」と作者を非難して終わりにするような中継者を無責任だと批判することには意味がある。
ブログやtwitterによって誰でも情報を発信できる時代になっている現在、誰かが発信した情報の再発信といえどもその情報を発信する責任は存在する。中継しているだけだからといって結果に知らん顔でいるワケにはいかない。その情報を中継するか否かを選択する権利があり、行使してしまっているのだから。
それを言っているのがこの部分だろう。

(1)キュレーションという行為によって与えられた(もしくは失われた) 新しいコンテクストに対する責任は、原作者にはない。

それには同意する。
しかしこちらはどうだろうか。

(2)情報は、発信した側ではなく受け取った側が責任をもつ。(それが嫌なら表現の自由と、知る権利とを捨てろ。)

中継者に再発信の責任が生じたり、受信者がその情報を信じたことによる不利益の責任を自ら負うとはいっても、そもそも発信された情報が無ければ受信者の責任も生じないのである以上、第一の発信者が追う責任というのは末端の受信者や中継者よりも重いハズではないのだろうか。
(所で、はてなブックマークに「汝、他人のリテラシーを試すことなかれ」*1というコメントがあったけれど、上手いことを言うものだ。他人のリテラシーをみだりに試すようなものではなく、然るべき時それが働くことを期待するに留めるべきものということか。)
さらにこのようなことが書かれているが、私はそれに同意できない。

空に向かってぼうっと口を開けていれば神様が美味しいものを口に入れてくれる、そういう呑気な世界はもう終わったのだ。かわりに、マツタケから毒キノコまで何でも自由に採り放題だけど、自分の目で全部見分けなければいけない厳しい世界になったのだ。

だから、基本的には、騙されたら騙された側に責任がある。
世間がお騒がせされちゃったのなら、騒いだ世間に問題があるのであって騒がさせた方には責任はないし、求めるべきではない。

「騙されたら騙された側に責任がある。」そういう考え方は支持できない。それはなぜか。

情報弱者」は守らなくて良いのか

世の中には一体、どれだけ詐欺事件の被害者が居るのだろうか。
詐欺の被害者はこう言っちゃ悪いが騙され易い人達だ。無知で人が良すぎるのに付け込んで食い物にされている。そして良い人とバカは紙一重だったりもする。
騙されるような「良い人」を対象にした悪徳商法で身近なものはなんといっても健康に関するものだろう。健康・医療に関する悪徳商法なんてものは大体が無知に付け込んで売るものだ。悪徳商法とまではいかなくても、ある商品に大きな効果を期待させる文脈で法律に違反しない程度の嘘があったとして、それに気付くだけの知識を持つ人は少ない。(意味の無い商品を買っていたとしても、健康を害するような危険なものよりはマシなのだけど。)

ある健康法や治療法が本当に効果のあるものなのか、専門の教育を受けていない素人が判断するのは難しい。長く関心を持って調べ続けていればある程度判断することは可能になるだろうけど、普通はそんなに手間隙かけて頑張ったりしないだろう。いくらネット上に専門家も居て情報が提供されているといっても、それを受け取る為の時間というコストだって馬鹿にならないから、全員に必要な情報を網羅して貰うことなんてとてもできない。
医療にはそういう「情報の非対称性」というものがある。医者が知っていて当然のことを患者は知らない。だから誰かが患者に間違った情報を与えた時、医者が一笑に付すようなデタラメでも信じてしまい不利益を被る可能性というのは決して低くない。しかも「良い人」は教えられた情報を疑わない可能性も高いし、そればかりか他の人に広めてしまうかも知れない。そういう良いカモがいるワケだから、医療・健康ネタの悪徳商法は後を絶たないのである。(間違った治療・健康法を伝えるのは悪徳商法だけではなく、間違いを信じてしまった善意の人ということもあるけれど。例え善意でも結果は同じことだ。)
保険医療制度というのはそのような悪徳商法(あるいは間違いを信じてしまった善意の人)による健康被害から患者を守る効果がある。保険が利く治療方法というのは既に効果が確かめられている治療法である。だから、患者は保険が利く治療を選択する限り自身の無知による失敗の可能性を逃れられる。
これが医療における「パターナリズム」の例だ。患者は保険制度によって守られている。専門知識を有するものが十分に安全で効果があると認めた治療法にしか保険が適用されないことで、保険診療を選ぶ患者は自分が知識を持たなくても正しい治療を受けることができる。
もし「パターナリズム」を全面的に否定するなら、このような保護は余計なお世話ということになるのだろう。患者は自分自身の判断によって、無効な治療を選択する権利があると考えることもできる。例えば癌患者がホメオパシーを選択して死ぬことが有ったとしても、それは患者自身の選択なのだから他人がとやかく言うことではないワケだ。意味の無い治療に金を突っ込んでドブに捨てるような真似をした挙句、症状を抑えることもできず苦しみながら死んでいったとしても、それさえ本人の意思によるのだから肯定して然るべきだと、そこまで言い切るならパターナリズムを否定したと言えるのかも知れない。
だけどそんな無茶な話が通るとは思えない。それでは多くの人が耐え難い苦痛と不幸を背負うことになってしまう。それに私は無知なせいで損をするような世の中を肯定したくない。医療の様に情報の非対称が問題となる場合にはパターナリズムを支持する。
人は自分が無知であることから守られるべきだ。何かについて他人と同レベルの知識を持っていない、持っていないということさえも必要に迫られるまで気付かなかった、そんなことは珍しくない。なのにそれを知らないことによって損害を受けるような仕組みがあっては安心して生活することができないだろう。(健全な社会を維持する為には最低限必要な知識を見積もって教育する必要もあるだろうが、何をどれだけ教育すれば良いのか、その話はここではしない。)
蒟蒻コラ程度の問題なら、大した被害も出ていないのだから、騙されるヤツが悪いと言って「自己責任」で片付けることもできるだろう。正直を言えば私だって、コラ画像を拡散させておきながら「騙された!」と作者を責めるような人間のことは好きではない。「情報の中継は自己責任だ、見抜けなかったお前も反省しろ。」という感覚も理解できるものだ。
けれど「騙される方が悪い」という態度が許容できるのは、これがかなりどうでも良い問題だからだ。医療に関するデマだったらどうだろう?誰かの人生を左右しかねないような嘘が拡散している渦中にあって、「騙される方が悪い」なんて言っていて良いのか?
そんな態度を取っていると嘘がどんどん広まってしまう。そうなれば得をするのは騙す側だ。なにも医療に限った話ではない。政治絡みの嘘が広まったらそれで世の中が動くかも知れない。情報を独占する立場にある者が嘘を広めて利益を得ようとした時、自己責任で放置する態度というのは騙す者にとって有利に働くことになる。
嘘を嘘だと見抜く為には適切な知識が必要だろう。けれど我々は全ての分野で適切な知識を持った人間になれる様な膨大な時間も持っていなければ専門的な資料も用意できない。誰だって知らないことが沢山ある。
勿論ちょっと調べれば判る嘘も多い。「ググれ」で終わることだって多い。専門知識を持っていなくても理屈がおかしいせいで嘘だと判ることもある。そんな稚拙な嘘には騙されない「賢い人」も少なくないだろう。だけど自分さえ騙されなければそれで良いのだろうか?
騙される人が多くなれば社会レベルの影響になってくる。健康被害が増えれば医療費が増加し保険料に反映されるだろうし、政治的デマの蔓延は正しい政策の実行を妨げるだろう。有りもしない危険が信じられれば安全なものが規制されて自由が損なわれるし、間違った環境保護活動は逆に環境を破壊する。それらのツケは結局自分も払わされることになるのだ。
そんなの冗談じゃない。

「自己責任」って良い事?

「自己責任」という言葉は分かり易くて気持ちの良いものだけど。これは強者の論理であることを忘れていると結局自分にも跳ね返ってくる。
騙される人を責めた所で状況は良くならない。責められたからって騙されなくなるのなら、騙されて苦労する人なんかいなくなる。だけどそんな風にならないのは、知らないことを一から勉強して理解するのは大変な上に、その知らなければならないことは沢山出てきてキリがないからだ。
勿論、騙される人が反省しなくて良いということにはならない。騙そうとするヤツが得をする状況を作ってはいけない。自分は悪くないという態度を取って平気でデマを拡散するなら、それは無自覚であっても悪事に手を貸しているに等しい。
守られるべき弱者であるからといって無知を正当化するのなら、パターナリズムの実行に必要なコストは上がっていく。自分の責任というものを自覚するのは大事なことだ。自己責任、大いに結構。それは立派な心がけであると思う。
けれど今現在無知な人間に対して、自己責任だから自分で判断して被害の責任も取れというのでは、結局デマが拡散することになってしまう。それもまた無自覚に悪事に手を貸しているということにならないだろうか?
パターナリズムを自分が無知であることの言い訳にするのも、自己責任論を他者に要求するのも、両方ダメだ。それは話が逆で、自己責任を心がけて自分は騙されないようにしつつ、他人にも目を光らせて無知な人間の被害を防ぐ様にしたら、色々なコストが下げられるだろう。そうすれば結局は自分の為になる。もっと単純に言うと「自分に厳しく人に優しく」という言葉になるけど、良くこの言葉で表されるような「人格者になれ」という意味じゃなくて、その方が効率が良いからそうするべきだと思う。自分と社会の為に。
例え一人で生きていくつもりだったとしても社会は大切だ。「人間は一人で生きているワケじゃない」なんてなんだか鬱陶しい言葉だけど、事実我々は一人で生きているワケじゃない。友人・知人と一切縁を切ってご近所付き合いもしない、家族も居ない、そんな状況で金だけは沢山あって引きこもるという選択ができたとしても、日々消費する食糧や水、電気、それに引きこもるなら何より重要な通信手段だって、この社会が無ければいくら金を払っても利用できない。
直接的な繋がりが無くても間接的には繋がっている以上、我々は一人になろうとしても「なりたくたってなれない」のだ。むしろ一人でもやっていけるような便利な社会に属している程、その人が社会システムに依存して暮らしている度合いは高い。都会に比べて地方は物価が安いけれど、代わりに「付き合い」を避けることが難しく、いざと言う時人に頼らなければならないし自分も頼られる。*2他人と関わらずに生活するというのは、人手の手配という面倒なことをシステムに任せてそのコストを金銭で支払うことのできる社会があるから可能な贅沢なのである。
そういう社会の恩恵を受けて暮らしている人間が、自分は大丈夫だからと言って他人の不利益を黙って見過ごすような真似をしていれば、いつかは自分に返ってくるのは当たり前の話じゃないだろうか。
多分「公共」についての話なんだろうな、これ。

こんなの蒟蒻コラごときでする話じゃないかも知れないんだけど、だからこそ考えてしまった。こんなのは大したことじゃなくても、「騙される方が悪い」という考え方がクセになっているとマズイ場合もあると思う。ことによっては自分が責任を取れる範囲なんか越えてしまうから自己責任論が何にでも通用するワケではないし、自分がそういう世界に生きているからって他人にも同じ感覚を要求するのは何か違うんじゃないかと思う。
「喧嘩上等、結果は自分で引き受ける。」という態度も決して嫌いじゃないんだけど、それは個人主義が貫かれて他人を巻き込まないからこそ見ていて清々しいと感じるのだろう。「騙される方が悪い」という考え方を広めることは、「オレが殴り合ってるんだからお前も殴り合え」と言ってるようなことにならないのだろうか。それだと喧嘩ができないヤツは困る。
喧嘩弱いくせに人の尻馬に乗って殴りかかったら殴り返された、みたいなのはしょうがないけど。

新しいメディアとネット

こういう話もあった。

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ツイッターは日本ではまだ新しい交流サイト。年齢制限もないため、コラ画像というものが存在することを知らないユーザーも多かったのかもしれない。

ツイッターは一度情報が拡散していくと、ねずみ算式に異常なスピードで膨大に伝播する特徴がある。そこを理解しておかないと、 今回のような騒動になることもある。制作者は「今回の件に関しては、私が思っていたネット文化……いわゆる2ちゃんねるのようなものと、ツイッターは性質 が異なるものであるという認識を欠いていた事が、一番の要因であると思います」とも述べているが、2ちゃんねるツイッターも匿名の文章投稿サイトなのだ から、基本は同じである。

同じじゃない、と思う。

twitter2chのユーザーは、重なる部分もあるが違う層も居る。
蒟蒻コラの作者が認識している通り、2chとか二次裏みたいなネット特有のノリそのままで問題ないと思っていたから、「普通の人」がする反応を予測してリスクを避けることができなかったのだ。
だから反応は二つに割れた。ネットに慣れていない「普通の人」が騙されたことにショックを受け「悪質だ」と感じ非難した一方で、「ネットのノリ」に慣れている人は騙された者を情報弱者と揶揄して「情弱畑」と呼んだり、「謝罪なんかする必要があるのか」と憤りさえもした。
twitterというメディアの特徴というのは、こういう層の違いを越えて情報が伝わっていく横断性にあると思う。RTの慣習が広まってシステムに組み入れられたことでも判るように、情報の回覧が手軽であることはユーザーの間で重視されている。
mixiなんかで友人を6回辿ると大統領に行き着くという話*3があるけれど、相手の許可が要らないtwitterのフォロワーだったら、友人を辿るよりもっとずっと無関係な人に辿り付くことだろう。
といっても6回も違う人のTLを経て孫RTされるような情報を発信することは稀だろう。その場合RTした人数の総計はどれ程になるのか、6回全て2人ずつRTすると考えても128人に達するから軽く3桁ということになるんだろうけど、余程注目を集める発言でなければ100はいかないものだ。
だけどそんなに極端な話じゃなくても、自分の発現が思わぬ人の目に届いてしまうことは十分に有り得る。それは何かの専門家かも知れないし、物凄く非常識な人かも知れない。自分のフォロワーというのは、自分の発言を見ようとするぐらいだからある程度自分に近い感覚の人が揃っているけれど、「フォロワーのさらにフォロワーの…」と辿るごとに感覚の違いは開いていく。それに誰かをフォローする動機は友好的なものばかりとは限らず、気に入らない人がおかしな発言をしないかチェックする為にフォローしている場合*4だってあるのだ。
一体誰が見ているか判ったものじゃない。
しかも届く先の相手の方では、特に自分の発言を見たいと思っているワケではない。知らないヤツなんだから。自分が2ch的な感覚では冗談で済むような嘘を発言しても、面白がって中継されるうちに2ch的なノリを知らない人の目に触れて、縁もゆかりも無い人から「本当のこと」として再発信される可能性が十分にあるのだ。
こんな誤解は2chの中だったらほとんど起きない。わざわざ見に来ている人しかいないのだから嘘があることぐらい分かってるハズだ。どこかのサイトへ転載された場合にもそれが2chの情報であるということは分かる様になっているか、明示しなくても特有な雰囲気をかもし出していたりして区別し易い。(区別できないようにしても多分2chユーザーに発見されて、荒らされまくって露見する。)2chというのはネットの悪い面を代表して「便所の落書き」としても知られているものだから、2chを嫌うような「良識のある人」が見るサイトはあまり2chの情報を出さないだろうし、どうしても必要なら後で嘘が発覚しても困らないように2chの情報であることを断っておくだろう。(リスクをちゃんと認識してれば、だけど。)
ところがtwitterでは注釈なんて付かない。自分が選んでフォローした人物はいつも見ているから発言の意図が追えるが、RTで流れてくる発言はどういう背景があるものか分からない。コメントが付けられた非公式のRTはともかく、公式RTは改変できない為に発言自体を見るしかない。そして、発言者が前後で補足していたとしてもRTは前後の文脈を無視して単独でされることが少なくない。そういうワケで発言者のアカウントを見に行って確認しないとその発言が2ch的かどうかは区別できない可能性があるけれど、そもそもtwitterでも2ch的な嘘が流れているという発想が無ければわざわざ確認はしないかも知れない。
だから2ch的なものをそれと知らずに見せられて心の準備ができていなかった人は騙されて、中には怒る人もいた。twitterが無かったら、もしかすると一生そんなものに触れないで済んだかも知れない人達と言ったらさすがに言い過ぎだろうか。
こうして考えてみると、蒟蒻コラに騙されて怒ってしまった人達も作者とは逆の意味でtwitterについての認識を欠いている。twitterはある意味「嘘の方からやってくる」メディアだ。2chみたいに心の準備をしてから嘘の中に分け入っていくのではなく、何の用意も無く油断している所に突然嘘が降ってくる。
それを認識していなかった為に理不尽さを感じて蒟蒻コラの作者を責めてしまったのだとしたら、作者にも被害者的な面がある…と言えないこともないのかも知れない。
まぁもっとも、コラなんか作れる人なんだから、何年ネットやってたんだって話もあるんだろうけど、そこは大した被害もなかったし自己責任で謝罪と削除までしたんだから十分だよね。あれ以上の対応なんて無かったんだろう。
twitterは確かに新しい部分があるメディアだから、2chで「嘘を嘘と見抜ける」ようなネット文化に慣れたベテランでも、それとは違う所に足を取られて失敗してしまうかもしれない。それにネット自体が利用者の増加で変質しているという部分もあるのかもしれない。新しいサービスはどんどん出てくるし、その利用者も新しい人が多くを占めるようになっていく。古い感覚に迎合する人も少なからずいるのだろうけれど、そうならない人が少なくて済むという保証はない。
古い「ネット文化」が通用しない機会は増えていくのだ。そこを認識せず旧態然とした態度でネットを利用していたら、衝突の機会は多くなるのが当然ではないだろうか。
見えない所で起きている変化に気付いていないとすると自分も危ないワケで、そのうち酷い目に逢っちゃうのかも知れない。
ちょっと怖い気もするね。

*1:「汝、神を試すことなかれ」というのはサタンが神の力を試してみるよう誘惑した時にイエスそれを退けて言った言葉。

*2:っていう話を聞きます。「リアル住職略してリア住」の蝉丸Pなんかも「マンパワーとコストのトレードオフで地方の安い葬儀が成り立っている」という話を度々語っている。

*3:ていうか元ネタは海外でfacebookかこれ。

*4:敵対的フォローってそうそうされないと思うけど、敵の多い人っていうのもいるんだよなぁ。