色んな人いて面白いよなー

こゆのがあって。

わはは、「グレーターみのもんた」って面白いなw
なにかっていうとこの人のことなのね。

まぁ色々書いてるけど、感情的なのであって共感する部分もあるし違うのもある。

自分の親が常に酒臭い子供の気持ち考えたことあるの?自分がそんな親になってしまう可能性があることを知ってるの?知ってて結婚しようとしてるの?

知ってる知ってるー!w
うちの親父(故人)はブルーシートに包まれて小便漏らしながら警官が担いで帰って来たこともあるし、よくトイレの前で力尽きて小便の海作ってたもんだった。
ある時モップ買ったけどあんまり役に立たなかったなぁ。某テレコンワールドのスマートモップなんだけどね。日本の家屋事情に配慮とか余計なことしやがってパイプにジョイントがあんの。テラ空転www
あー、酒臭いこと自体は別にどうでも良いなw
悪い人じゃ無かったつうか、実は母の方が問題なような気もしたりしなかったり。

増田さんに会うために時間を作ったんですよ。それは親とかどうとか関係なく礼儀として「飲食代くらい払います」って思ってくださいよ。

まぁ増田の創作だろうとかいうことは抜きにして考えると、呼び出して頼む立場だろうからこれは当然だな。
とはいえ僕はまず結婚なんて考えちゃいないし願望していないので全体的にあんまり興味がない。じゃあなんでこんなの見たかというとこれ。こっちが面白かったので。

この程度にダメな男が相応の相手と相応の環境において相応の結婚をして子の親になることはありふれた、そのゆえに所謂階層問題ではあるのだが、だからそれが不幸な結婚であるとはまったく思わない。というか、それを不幸な結婚と言ってはいけないこと。虐待した母親だってそれを「母親」として否定してよいのはその「子」だけであってむろん犯罪行為は処罰さるべきだが、母親失格と人は他人に対して徒に言ってよいものではない。だから、虐待死した子どもの問題が普遍的にある。そのとき、ひとりの人間としての「母親」に対する「子」の思いはどこへ行き着くのだろう、否、消えてなくなったのだ、それでよいか、と。橋本治が『ふらんだーすの犬』において突きつめたのはそのことだった。

まぁね、子にとっては他に代わりがいないからね。だからこそ可哀想なのだが。養育者として失格だろうが親は親ってか。それも確かに真実だ。生まれてから取り消しはできんから心構えはして欲しいが、事が起きてから人格否定してもしょうがないわな。
低所得者だろうが頑張って幸せ実現してる家庭はいくらでもあるだろうし。問題は多いだろうけど、幸せの中身は色々だ。

結局は本件、岡林信康の『手紙』な問題として問うか、私圏における愛の有無として問うか、と考えると、元増田の趣旨は前者と思う、というか「私圏における愛」自体にほとんど筆が裂かれていない。つまりそのような問題提起を暗黙に含意して構成されている(と私は勝手に決める)。そして、社会的諸関係に対する調停意思の有無をもって私圏における愛の有無を問うたのがasami81さんの記事だったのだろう。それ自体はひとつの正論と思うし、対するに岡林信康を説いても筋違いとしか言えない。ただ、元増田氏が意図したのは岡林信康だったろう。

手紙ってこんな歌。
http://www.fukuchan.ac/music/j-folk1/tegami.html
部落差別で女性が身を引くという内容なんですな。
社会の底辺にある者として意思だとか関係無く笑われている、差別を受けて身を引こうかと悩んでいるという筋書きじゃないかということで、この場合愛すればこその悩みなわけですか。
そこに愛が足らんと突っ込むのは違うよと。

冗談を言っているのでもなく、私圏における愛とは世界に一つだけの花を個人的に、そして当事者間で信じることである。そのとき花に貴賎はない。かくて、私圏における愛は社会的諸関係との調停の回路を模索する、彼らが社会において生きようとするとき、必死で。社会的諸関係は決して妥協してはくれない。それが常識的な解の実相である。

二人の間では「世界に一つだけの花」も真実だが、社会にとっては雑草だったりする。

社会的諸関係に対して調停意思を持ち合わせるということは、自分を殺すということではなく、社会的諸関係と自分の、あるいは社会的諸関係と自分たちの、38度線を模索し暫定的にも設定することだろう。だから結婚とは紙切れ一枚の行為でもある。恋愛とは本来的に治外法権の所業である、それを法治国家に帰属させるのが結婚という社会的行為のひとつの機能でありまたそれは効能でもあって帰属を拘束とは私は呼ばないし思わない。

結婚の機能や効能ね。結婚は目的じゃなくて手段ですからね。紙切れをどう使って幸せになるかが大事。

恋人が大切に思うものを否定すべきでないし尊重するべきであるからして恋人の両親にも同様に対する。それは「イエ」とかそういうこととは少し違う。恋人を取り巻く、そしてその人が大切に思う人間関係を自らもまた認めるということであり、加えて、恋人の現在をこれまで構成してきた無数の「思い」というか、asami81さんの言葉で言うなら「愛」の存在を知り認めるということである。貴方が大切にしたいと思うほどの人であるなら、その人がそのような素敵な人物であることに、その人が引き合わせたいと思うほどの両親が関与していないはずもない。むろん、逆もまた真であって、その人のアレな部分に両親のアレが関与していないはずもない、という話もあって、結婚しようが子を為そうが世に親子の因果は尽きない。そしてなさぬ仲の確執もまた尽きない。

アレな親とそれに似た部分も含めてあなたを愛しますってか。きっついなぁw

私は誰かを「大切にしたい」というふうに思ったことはないのだが、恋人に自分の両親を引き合わせたいとかこれまで思ったことがない、むろんそれもまた階層問題ではあるのだが、それ以前に自己とその来歴を厭でも構成する手札を片端から見せたいと思ったことがない。人間というのはばれてしまうものであるとはいえ、率先して手札を晒すことが結婚の階梯であり戦略的互恵関係の一環として要請される愛の証明であるなら、なるほど私が結婚に関心ないわけだとは思う。

あーこれはあるあるw
もし親を引っ張り出すようなことになったら考えるのは「余計なことしてくれるなよ」で間違い無いw

恋人を取り巻くその人が大切に思う「愛」は現在進行形であるからして、暗黙の協定は結ばれて然るべきだけれど、常識に鑑みて語り手が記すところの恋人の両親の対応は偽の遺骨送ってくるレベル。宜しいならば戦争だ、は冗談としてもレスポンスがノーサンキューにならないのは増田はダメな男かも知らんがいい奴で、恋人が大切に思う人びとを無下にはできないという前提に立ってはいるからだろう。私は発想が女衒入ってるので根本的にああいう優しさというか人の良さはわからない。

まぁねぇ。笑われた時点で受け入れることを拒否して、理解だの援助とか要らんわ!俺が結婚するんだ!って突っ走る話だったら大して注目されないだろうな。

協定なきとき尾崎豊の歌のようなことになりかねないと、元増田における語り手は知っているのだろう。誰しもが社会的諸関係の掌にありその治外法権としての恋愛さえ社会的諸関係の掌であることを「思い知らされる」。そして悲しい歌に愛がしらける。マリッジとはそういう概念ではないのだが。所謂セカイ系と現実の恋愛の最大の違いは何かというと、言うまでもなく現実の恋愛は決してセカイになど至りはしないし世界と引き合いもしないということ。心中しようが何しようが。私が無感動なだけかも知らんが、その点において、尾崎豊の歌は決してセカイ系ではなく、君と僕の、俺とおまえの、永遠なき関係の限定性と閉塞とそのどうしようもなさをよく知っていた。だから論壇でよしながふみが推される時世なのか、よく知らない。余談。

ああ尾崎は結構打ちひしがれてるからなぁw
愛でお腹は膨れないししょうがないやね。どんなに好きでも24時間二人きりで居たら死ぬw

「思い」や「愛」とは証明されるものではないし、少なくとも利害関係なき傍の人間に対して証明する筋合もないし、また他に主張するものでさえなく、結局のところは私圏における当事者問題でしかない。敢えてこう言うが、アル中どころか暴力夫が妻を思っていないわけでも愛していないわけでもないように、虐待親が子を思っていないわけでも愛していないわけでもない、ただ、歴たる犯罪行為はある、という。そして夫の妻子に対する「思い」や「愛」が、親の子に対する「思い」が「愛」が、犯罪行為を正当な処罰へと至らしめないことが幾らもあって、それが時を経て破裂することもまた幾らもある。

最終的に殺されちゃうような形の愛も、愛し方が間違ってるだけで愛であることは否定しないというところかなぁ。御免被るけどそういうのもあるんだろうな。

子の親にはならないが吉と思っていた人間が子の親になっていく光景を幾度も見て、そして未だ虐待や遺棄の話を聞かないとき、私は率直に思ったのだった、人は分からないと。そして人は自身が責任持つ存在あることにおいて変わりうると。あまりに陳腐な暫定解であるが。

えてして陳腐な答えが正しかったりするものかも知れない。人間なんかやってみるまでわからない。

大人の社会においてまた貧乏人において親子とは家族とは家柄格式措いても銭勘定の問題だったのであって、家柄格式が差別として表向き排されても銭勘定は付いて回る。



そのことに共同体としての親子が家族がひいては家父長制を是とする国家が関与することに対して否を唱えたのがかつてのベビーブーマー世代であり、そして長じた彼らが社会の要に位置する現代の新自由主義「的」な資本主義社会において、資本主義ある限り付いて回る結婚出産の銭勘定は容易に個人の責務としてひいては器量として問われる。つまりは個人において当事者間において「双肩にのしかかる」。

銭ですなぁ。だから社会がいくらか負担を軽くしてくれたら子供が増えるだろうという話は理解できる。それが良いかという話は別として、例えばそういう考えもあるだろうと大野さんは言ってたのかな。

甲斐性なしという言葉はある種の女がある種の男に向ける最強の傷つける言葉であって、まあ正直、自分の男に対してそれを口にするということは殴られて仕方のないことだなあと私は思うわけですが、見ず知らずの他所様の男にそれを本気で、しかも激励としての叱咤のつもりで言う人がいるとは思わなかった。増田さんへ。久しぶりにグレーターみのもんたが現れました - ls@usada’s Backyardにおける「グレーターみのもんた」という指摘は、残念ながら正しい。



「殴られて仕方ない」とは、ジェンダー規範を内面化している者に対してそれをピンポイントで毀損するべく痛恨の一撃を繰り出すのはジェンダー規範とその人格的な支配性すなわち逆鱗たりうることを承知してのこと、ということ。逆鱗を知って傷つけるべく故意につついているにせよ愛ゆえに本気で言っている天然にせよ、双方合意のプレイは御自由にという主義です、私は。男という内面化されたジェンダー規範と女という内面化されたジェンダー規範の相互毀損プレイ。スコセッシの映画にもよく描かれます、女房が亭主にろくでなしと言って男社会で男自慢張ってる亭主が体面傷付けられて女房を売女と罵りながらボコにするという、古今東西に亘る人類の古典的営みは。むろん一切は男社会の問題であってジェンダー規範の内面化をもたらしたのも男社会であるわけですが。

「相互毀損プレイ」ってすげーなw
まぁ殴られそうな相手に殴られるのわかってて傷つける物言いをしちゃうってことはあるのかもしれない。
そういえばこの歌好きだったなぁ。

傷つけ合うことで確かめていた
もうそれ以外ふたりをつなぐものは無くて

http://www.room493.com/discography/vivien.html#3

何も言わないより相手を突き刺すことを選ぶっていう。「恋の終わりを私にください」なんて歌っちゃう女っぷりにやられるんだな。当事者になりたいとは思わないがw

アル中は弱い男と「甲斐性」なる社会的概念において水に落ちた犬のごとく打たれる、見ず知らずの人間に。酒飲まない東京人の私は、古典落語に登場する亭主が「甲斐性無し」ばかりであることを美しいと思っている。むろん、美しさで飯は食えない。美しさで飯は食えないとだけ言ってみせる言論に私は関心がない。飯の話をするなら、そうした言論こそ誰も得しないのだから。

「テロリストのパラソル」なんて映画見たっけな。
あれはアル中の中年男がしがない店で客に酒を出しつつ自分も背を向けてウィスキーを飲み、それしか作れないホットドッグ出して日銭を稼いでるという非常にしょーもない男の話で。
別に震える手でウィスキー飲んでホットドッグ作るだけで終わる人生だって、自分が関わらない限りそれはそれ。嫌いじゃない。
うちの親父と何が違うんだって気もする。バーテンか会社勤めかってだけだろう。まぁ途中で破綻するまでは家族支えたのかも知らんが。ひょっとしたら良くやってた方かね親父は。

「甲斐性」なる社会的概念はこの社会において自明の規範とされているにとどまらず愛の問題としても自明と見なされているがゆえに、福祉受給者は子を為すべきでないとかそういう話が公然と出る。甲斐性の欠如は愛の欠如とイコールであるからして国家に経済援助を求めることは恥であり情けないことであるらしい。福祉受給者が「甲斐性なし」であることは端的な事実です。だから子が不幸になるかは私は知らない。

親が国家に寄生してると言える状態でも子が不幸になるとは限らないわな。いらぬ中傷を受ける可能性は上がるだろうが。愛とかは良くわからん。

愛しているなら恋人のことを思え生まれてくる子の為を思え、というのは最強の物言いです。私はよう言わん、親しい者に対しても。何様だ、と頭の後ろから小人が囁くからです。



囁く小人のない人もあるのでしょう。実績の裏打ちとやらで。私事をビジネスと考えるからマネーの虎のごとく語れるのかも知れません。戦略を要するにもかかわらず段取りの悪い能無しであると。それは別に構わないのだけれども、「彼女と生まれてくる子に対して」とか要らない。主観においてはおためごかしでないからおそろしい。



愛の責任を負うこととはつまりは甲斐性の問題であるらしいです。間違ってはいません。愛情はプライスレスではない、それが甲斐性という言葉の意味です。そしてそれは責任という概念とイコールであるらしいです。それは構わないのですが、なら愛情をプライスレスのごとく騙るべきではない。繰り返しますが私は反動にも退行にも与しませんが、しかし自律した個人の涵養なき新自由主義「的」社会において愛の責任のハードルはひいては賭金は吊り上がる一方です。それは「歴史的経緯」に基づく世の趨勢というものであって云々したところで詮無いことですが。だからこそohnosakikoさんの議論とその結論は妥当と私は思いますが。

当たり前だが人を愛するのも楽じゃねーなぁ。金がかかるんだぜーw
自分を愛して生きるのも金かかるんだけどな。

愛の責任を、あるいはそれゆえのそれからの逃避を、幼い子も知ってしまうものです。人は甲斐性を傍から問うにもかかわらず愛情をプライスレスと信じている。そのように言う。それが現代日本の社会規範です。法制度は社会規範と好んで対立しようとはしない。だから、家族という密室は破綻寸前の問題を抱えていようと多く孤立します、責任を付随する愛の観念に守られているがゆえに。「甲斐性」という概念に代表される現代的なオブセッションに。



どうにかならんものかね、と私は思いはしますが、私もまた破綻寸前の家族という孤立した密室で育ったもので、他の選択肢とその可能性についてはよくわからない。親が人格的な同一性を失ったかに見える姿を目にすることは幼き子にとって残酷なことです。しかしその残酷をもって他人の「子の親」としての如何を傍からあまつさえ中田氏の以前に云々することは、しかも「彼女」と「子」とその未来と人生とそれに対する責任とその自明を公然と人質に取って「貴方の為を思って」説くそれは、残酷の再演でしかなく、とんでもないことです。かつて偉大な作家が言った通り、貴方の為にという言葉はいついかなるときも美しくない。



生まれてくる子にとっての残酷をasami81さんが示したような現代日本社会の基準に即して考えるとき、なるほどアフリカ人の多くは子の親になるべきではないのでしょう、が、世の中には言ってよいことと言って面白いことと、言って詮無いことがあります。私も詮無いことをよく言いますが。

わはは、この人良いわ。実に素晴らしい。
何が「貴方の為」だw


勝手にやらせて貰うぜ この夜に噛み付いて♪

親父より母親の方がアレかもって話をちょっと。

「生かす」の単位がそもそも定義できないんだけれど、生活力のない人を「生かす」ためのコストというのは、それを持っている人に比べて、圧倒的に高いような気がしている。

何もできなくて生きていけない人というのが、いる。身体的な病気はないのに、とにかく何もできない人。仕事もしてないし、親類縁者は縁を切ってて、役所がお金を渡しても、全部アルコールに変わってしまって、ご飯を買うお金を取っておくとか、そんな発想がそもそも無くて、肝臓壊して餓死しかかって、ある日救急車で運ばれてくるような人。

うちの母親っつーのは生活力というものが無いんだよなぁ。金銭感覚がなっちゃいない。
人には親切にしたい、いい顔をしたいがその元ではどこかといえば親父の財布だった。
持ってれば持ってるだけ、どっかに閾値があるにせよ使う金額は増える。ま、小市民的なところもあるからそう大それた金額にはならないはずだが。怖いのはキャッチセールスぐらいか。浄水器20万とか結構最近クーリングオフしてる。
多分好きなようにさせたら月10万ぐらい小遣い必要だな。絶対僕には養えませんw
甲斐性?何それw
こういう人とだけは結婚したくないとずっと思ってたわw