スカイ・クロラあれこれだべりいまうっかり

某原稿の元ネタにいっぱい見たけど盛り込めなかったものが沢山あるが、捨てられない性格なのだ。
それはさておきまずはネタ。

ネタバレもクソもねぇwwwwww
ひと笑いしたところで押井さんの古女房といわれる人の話。「地下水道*1の話も面白い。

出崎監督に黄瀬氏が「目指す方向性がちがう」と感じたのは、つまるところアニメーターとして腕をふるえないからではないだろうか。

レイアウトというアニメーターの技術をたよる押井監督に対し、出崎監督は入射光や陰影という撮影の技術をたよる。アニメーターが作った絵を、撮影段階で見えにくくされたりもするわけだ。止め絵による陰影表現も、絵を動かしたがるアニメーターからはやはり好まれないだろう。

出崎監督が演出家として最盛期の時代、今ほどアニメーターの質も量もそろっていなかったという事情もあり、撮影にたよる演出を選択していった結果、現代では使われにくい演出技法に行き着いた。止め絵や構図といったわかりやすい特徴は真似できても、出崎監督ほど陰影やタイミングを操れる演出家は、山内重保監督くらいしか思い当たらない。

対して押井監督は、内容に爽快感のない作品ばかり作っても、アニメーターの力を信じ、たよっている。レイアウトまで3DCGを多用して参加アニメーターから不興をかった映画『イノセンス』でも、クライマックスは著名なアニメーターの個性あふれるアクションをつるべうち、物量で押し切った。空中戦を3DCGで制作した映画『スカイ・クロラ』でも、むしろ日常には作画リソースを注いで多くの芝居をつけている。

きっと、多くの文句をつけつつも、黄瀬氏は押井作品へ参加し続けることだろう。

アニメーターの力を知るからこそ、ゲームのCGに注目してるんだよなぁ。後進が育たなくてこの世代で終わるからって悲観して。

 そういえば、この映画って、ものすごく『銀河鉄道999』っぽいなあ。

 草薙水素って、ツンデレで色情狂のメーテルだったのか……

をいw

押井さんはドリーマーの時間の話とか、レイバー1での都市論、2では平和ボケなど毎回色々テーマを盛り込んでいるんですが、私が思うのはそれらは結局本来主張したい映画の第一義ではなく、極端に言えば仕込みのネタの一つだよねと感じてました。何か濃い構成のできる題材であれば別にこの話でなくてもいいみたいな?

結構ある見方で、何かと実験しながらやるもんだから、お説教したりうんちく語りながら技術検証してるなんて言えなくも無いような。
おそらく、映画というのは映像と音声による総合表現だから、主張をわかりやすく示すのは映画らしからぬと思ってるんじゃないだろうか。
映画には文章と違って絵がある。絵と違って時間がある。音楽と違って言葉がある。その全てを駆使してどれも主役にならないってことに映画的醍醐味があるのかも。とすれば主張はちりばめられて全体の雰囲気を作っている。はっきり言わないのがいつもの流儀。
それにその時強く思ってることがあったからといって、それを誰かに届けるメッセージとして映画を作っているわけじゃなく、とにかく映画を作りたいんだけどたまたま強く思ってることがあるから味付けにしちゃえって感じだったんじゃないかな。主題があってもそれが動機じゃないっていう。

押井さんがやりたいことはいつも映画の構成の濃さなんじゃないかなと私は思っていて、シナリオやテーマや、キャラも作画や音楽や美術の描写などもあらゆる部分を手持ちのカードとして無駄にせず、しかも単にこれは実は裏ではこういう意味ですよの羅列にはしない。部分で個別に仕込むんではなくて、関連づけて構成する、それがもう美しく張られた編み目のような完成品にすること、それに最大の労力をかけている人というイメージが。

今回ももちろん構成には最大限の労力をかけられていたと思いますが、ただどうも、押井さんが言うように、今回は本当に目標を見つけられず心の中で彷徨う人々に対して何かを示したいという意図が、カードとしての存在を少しはみ出していたような感じがしないでもなかったです。

今回は普通の映画みたいに、見てる人が何かをメッセージとして受け取るような感じ方が志向されていた、ってことなんだろうけど、じゃあ本当にメッセージを伝えるつもりなのかと言えばはてどうだろな。言うけど別に聞かなくていいよ、っていうノリもあるような・・・あーそれトークしてる押井さんそのものだな。

気になったのは事故の遺体回収の場面で水素がいきなりキレたのですが、あれはなんでこんなところでそこまでキレるのという場面に見えました。普通なら、あとで実は情にあふれた裏事情があったんです、となる場面なのですがそういうことではない。つまりどっちかというと意味不明なキレ方をする独特な精神性の人間、乾いていながらどこか爆発する火種を持っている人間ということでしょうか。

とりあえずなんかすげー苛立ちを心の底に沈めているって感じはするよなぁ。
からっかーらにー♪
かー、わーいてぇー♪
ちょっとこすれただーけでぇー♪
てーんーかーするー♪*2

メイン2人はやはり何かがストンと抜けているようなしゃべり方と声なんですよ。別に棒とかには私は思いませんでした。基本平坦ですが、ちゃんと微妙な気持ちの温度の変化を演じてたと思います。声質自体あまり抑揚のない感じを選んだのかもわかりません。というかその辺の、熱くなりきれない人間の描写に関しては異常に慎重で丁寧だったと思います。これも私の想像ですが、押井さんも55歳だったかですし、実際のところどうなのっていうのは思ってると思うんですよね。自分の中に実感がある訳ではないんではないかなと。

いいキャストだったなー。悩んだだけありますよやっぱり。あれは実に若者っぽい。つーか中二。w

それで作画の話でもあったのですが、無意識の動作を作画する、動いてないけど動いてるような印象を与える芝居を作画するとか、というのも全てそこなんでしょうね。乾いてる人間を見せるためにはやはり無意識の動作の印象が要ると思ったのかも知れないです。

実際には落ち着いてたけど、キョドってるとかだったらやだなw
まー要するに闊達なコミュニケーションの為のボディランゲージとか一切しない感じか。表現が無いことを表現するという。

 『ヱヴァンゲリオン新劇場版』を見て、庵野監督の宣言やら、エヴァの考察ページやら、富野御大やら宮崎駿やらの発言をザ〜〜っと見ながら過ごした。そこで感じたのが、アニメ監督たちの真面目さというか、「社会的責任」を意識したような発言ができるのは、もうアニメ業界しか残っていないのではないかという思いであった。

「お説教ネタ」っていうのがある気がする。オタクって演説とか好きだよなw
何かを語ることがネタになるからこそ、ネタとして受け入れて貰うことが隠れ蓑になって本当に語ることも許されちゃうってことはないかな。社会的メッセージが同時にエンターテイメントってそんなジャンルなんかあったっけ。

 『スカイ・クロラ』にしてもそうだ。押井守は「若い人たちにメッセージを」云々と繰り返し語っていたように思うが、その「真面目さ」というか、「若者たちよ!」みたいなノリが、アニメ業界には確実に広がっている。

 彼らの発言を見ていくと、自分の作品が世の中に影響を与えているという強烈な自負を垣間見ることができる。だからこそ、富野御大や宮崎駿エヴァに対して全否定する。いわく、神経症的な時代に神経症的な物語をそのまま作ってどうするんだ!という怒りである。

 このような機能は、戦後のある一定の時期まで文学が担っていたものであったように思う。あるいは、古きよき「知識人」とでもいおうか。しかし、現在はそのような機能を担えるだけの人物は居なくなってしまったし、担おうとしている人間もいないのではないか。もう社会には、さまざまな分野の専門家がいるだけであり、それで良いのではないかと私は考えている。

 しかし、富野や宮崎、そして庵野の「時代錯誤っぷり」は一体何なのだろう。彼らは、作品を通して、社会にアンガージュマンして、積極的に自らの主張を表明していこうと確実に考えている。そのような微温的な左翼ノリは、有る意味現代という時代状況を反映した結果なのだと思うのだが、愛すべきものであって、非難されるべきものではなかろう。それ自体は面白い現象であるように思える。

 しかし、また別の問題もある。作る側のメッセージ性を受け取るかどうかは読者の自由、というのは通俗的なバルト主義なのだけれど、作り手側たちが発信する「メッセージ性」が、なぜか説教臭く最大公約数的なものに集約されがち(「現実に帰れ!」みたいなもの)なのは、「作者の死」とは独立の問題として扱われるべきではないか、ということである。

 また、読み手の問題として、上で挙げた監督たちや、東浩紀あたりのような「説教臭いメッセージ」をリアルなものとして感受してしまう感性から、読み手のレベルも停滞してしまっているのではないかということである。彼らの言っている事は、それ自体興味深くて軽々しく否定できるようなものではない。しかし、彼らの説教的言説は説教にすぎず、おそろしく退屈であって、われわれの常識をくつがえすようなことはありえない。

読み手の問題ねぇ。実はいい学校出た優等生の尾崎豊が不良っぽい歌歌ってたらそういう人のカリスマになっちゃったなんてことは世の中にあるわけだが。
エヴァ見て救われたと語る中学生っていうのは本来ぶつけた先のオタクとちょっと違うとか・・・うーむ。ぶつけた先については軽くスルーされた感があるし、漁師が網を引き上げたら外道ばっかりだったっていう感じか?

そしてストーリーも実に奥が深いです。永遠に大人にならないということは大人のように何事も計算して諦めたりしない、可能性がある限り戦い続ける素晴らしさでもあると思うのです。奇しくも今日から高校野球が始まりましたが、どんなに点差が開いても決して試合終了まで諦めない高校球児の姿に我々が感動するのは、その「何かを変えられるまで戦う」ことの意味合いを心のどこかで知っているからなんだと思います。でも大人になると効率性とか色々計算が先立ってしまって戦うことを諦めてしまうものなんですよね。

この映画でも函南の正体を土岐野たちは知っていても何も話さないのも、彼らがキルドレという子供なのに置かれている状況が大人の世界だから精神も大人にならざるを得ない矛盾がゆえ。函南に対する何かを変えられるかも知れないという可能性と、ジンロウという昔を思い出させるがゆえの先立つ計算の間で苦しむ草薙がタバコを手放せないのも、どこか休息が必要なのに休息を取れていない現代世界を表現しているような感じに見えました。

キルドレは大人になることを強要された子供ってか。

作られた世界に生まれた永遠の子供たち『キルドレ』が作られた環境で、作られた仕事をし、当然のように死んでゆく。そして、その繰り返しの世界。「変わらない」のではなく「変わりたくない」から子供のままでいるという発想。子供であるが故の特権と無力さ。そこに疑問を持った時、果たして「子供」は何を思うのか…そもそも「子供」とは何か?「大人」とは何なのか?

…現実世界においての「大人」…「おとな」…大人って何だろう…?子供が大きくなっただけ?下手したら子供よりタチの悪い大人もいるしな…生身の勝負を恐れていろんなもので防御したりするし…。
いろんな事を経験し、背負い、守るべき立場にいるはずの者が、自分を守ることに必死になってしまったり…守ってくれるものを探している。そんなカンジ。

大人が不在で仕方なく成長したってとこかな。

劇中、戦死していった「子供」に対し「大人」が言う“カワイソウ”という言葉。“カワイソウ”だなんて口にできる方が不思議だ。なぜならば「大人」が「子供」をそうさせているのだから。それは「大人」であるというエゴ以外の何物でもない。カワイソウなんかじゃない!!そう叫んだクサナギスイトの心境はこういう事なのだろうか…?

わかったフリだけの大人見てキレる子供か。

主人公ユーイチが云う。
キルドレは大人になれないんじゃない。大人にならないことを選んだ。
勿論これは設定の話でなくテーマに準じた観念的な台詞であるわけだが、つまりはそういうことなのだ。
文化祭前日を望み、大人になることを否定し、気が付けば葬式の準備を課せられる日々。そう、ツケは必ずやって来る。

自分でない他の誰かの為に生き、何かを諦め、得体の知れない別の何かを手にすることが大人になるということならば、そこには荒漠たる茨の道が広がっていることだろう。
「葬式の準備」とどちらがマシなのか、今の私には判らない。

ただ第一子が生まれる前日にこの映画を観れたことは、私にとって極めて意義深かった(1日でも遅れていれば映画どころではなかっただろう)。
無論子供が生まれたからといって安易に大人になれたわけでは全然ないが、大人になるか子供でいるか、命題を掘り下げる人生でも数少ない大きな契機ではあるわけだ。答えが出るのはいつのことだろう。

結構大人が我が身を振り返ってるんだよなぁ。子供のことを考えるのが大人だっていうんなら、スカイ・クロラを見ると大人に近づける?

スカイ・クロラは主にオトナになれないキルドレ達のストーリーであることに対して、フックに出てくるピーターパンは、オトナになりたくないネバーランドの子供達や、オトナでありながら成長しないフック船長の葛藤、そして、オトナになる選択ができたピーターパン。責任を持ったピーターパンは、暖かい家族も子供達もいる幸せな家族像が描かれている。

そういう意味ではピーターパンの方が圧倒的に幸せだ。そして理想的なアメリカ人の家族像に戻ることでお客の共感と安定を得るように作られていると思う。(それがハリウッド映画パターン)

スカイ・クロラはそういうのとは無縁な世界を通じて、現実に存在しうる閉塞感というリアリティを感じさせようとしている。

もし同じ哲学を持っていてもエンタメ方向に生かすのであれば、うる星やつらという世界に戻すことで自動的に前に進んでいく「ビューティフルドリーマー」や、今の夢と現実はどちらが幸せか?を問いながら現実の自由を求める「マトリックス」になるハズだ。

そうやってお客が「単純に楽しいと思える」ストーリーという制約を生かしながら(つまりお金儲けに寄与しながら)、自分たちの表現したいものをうまく織り込んでいくのがコンテンツビジネスのありようだと思っていた。

しかし、今の押井守はそういうエンタメ的な概念をもはや超越しているように思える。主人公のポジティブさをうまく利用して無難に映画を盛り上げるなんて意識は全く無いように思える。
(原作がそうなってるだけかのかは知らないのだが)

作家映画っつーか、単館上映のいわゆるミニシアター系っぽい客層なんだよなぁ。
今でも映画に何かを求めてしまう観客というのはいるわけで、ハリウッド的エンターテイメントだけでは不満な人は結構足を運んでいる。
僕がヤン・シュワンクマイエル観に行った時は他に「UFO少年アブドラジャン」*3とか「ユリシーズの瞳*4とか上映してたな。誰が観んの?いや、面白そーだけどw
桜桃の味*5のDVD売ってたりしたよーな映画館が好きな人にはオススメ、スカイ・クロラ

 一番ドキリとしたのは草薙が自分に子供がいることを明かすシーンだ。「あの子、いつか私を追い抜くわ(うろ覚え)」なんてことを言うんだよね。自分にも子供がいるから分かるのだが、こういう台詞を聞くと背筋に冷たいものが走るんだよな。
 つまりさ、たとえ娘や息子がいたとしても、世間から「親」と呼ばれる存在であっても、自分が「子供」であるってのは、自分自身が一番分かってるんだよ。でも、セックスすれば娘や息子は自然にできて(そういう意味で、キルドレはセックスする際に大人の女である娼婦を買い、しかも娼婦はキルドレにどこか同情しているという本作の世界観は秀逸)、しかも娘や息子は親である自分の知らないところで成長して、自分を追い抜いて「大人」になってしまうかもしれない。全ての親はこういうコンプレックスと焦りがない交ぜになった思いを娘や息子に抱いてるわけですよ。私も人の親だからそれが分かる!と断言したい。

娼婦=普通の女?
大人になりきれなくても子供ができて結婚して、同情されながらも子育てはするってか。

最後の戦闘に赴く場面で、字幕では「”ティーチャー”を撃墜する」と書いているのに、台詞では英語で”Kill the father”と言わせているあたり、押井演出の真骨頂だと思う。ギリシャ神話の時代から語られている通り、父殺しをすることで、子供は初めて大人になれるのだな。

 しかもそれまで散々、コーカソイド系の顔をしている人達は大人で、比較的幼くみえる日本人(というか西尾鉄也書くところのアニメ人)系の顔をしている人達は子供であって、キルドレは仕事してる時は英語で喋る、という演出を積み重ねた上でだぜ。少佐、じゃなかった草薙(これも苗字同じか)が精神的に追い詰められ、バーで酒飲みすぎてトイレで吐いて洗面所で顔を洗った後に鏡を観たら、鏡の端っこに醜悪な大人として演出された白人女の顔が映りこむシーンなんて本当に驚いた。しかもその後、髪をあげた草薙は大人とも子供ともつかぬ異様な色香を放っていて、しかもそれを声優の演技に頼らず、作画とコンテだけで演出していて、押井演出は本当に底が知れないなと思ったよ。イライラしたら煙草を吸う、という演出には飽き飽きしそうになったけど。

キルドレは仕事する時は英語喋ってて、無関心な大人と同じ言葉使って営業スマイルしてるわけだ。
日本語を話す日本人の大人はなんだろな。ササクラとか身内はともかく、スイトが噛み付いた上官とか。プライベートで縁のある大人?
別段頼りにもしないし理解も求めない家族ってところかなぁ。身内の尻拭いするハメになって、てめぇやることはしっかりやれよ、大人だろ、みたいな。

原作を読み終えたとき、この作品のテーマはニーチェのいうところの「永劫回帰」なのかなと思いました。

一見、救いのない物語のように見えますが、
「世界が何度めぐり来ても、いまここにある瞬間がかくあることを望む、という生の肯定」
があるように感じたのです。

ニーチェっていう人は多いですな。まぁ単に繰り返しだから。

きっと、この背景には、これまで押井監督が繰り返し描いてきた、「所詮ヴァーチャルでしかありえない生」ということが背景に潜んでいると思います。

80年代に、ボードリヤールという思想家は、
「もはや誰もが誰かのコピーで、オリジナルなどありえない」
と述べました。
このような閉塞感ただよう考え方を「ポストモダン思想」というのですが、例えば村上春樹作品に描かれる「僕たちはどこにも行けない」という感覚もこの「ポストモダン」の影響を受けています。

そのように、生きていることがどんどん「ヴァーチャル」になっていって、生きている実感がない、終わらない日常が繰り返されるだけといった、ゆるやかな絶望感や閉塞感が社会を覆っているのが現代だともいえます。

ポストモダンですか。東浩紀がこの映画を好む理由?

 「希望を持てない人に向けている」と語られているそうです。

 自分の感覚では、目標を持っていて、その行為に対して自覚的な人間に向いていると感じます。

 私の場合、目標を持つたびに

 「それに向かって進んで成功したとしてどの程度の幅に収まるのか(間違いなく革命的なほどの成果はあげられない)、失敗した場合のリスクはどの程度か、一時成功したとしてその後いつどのようにして挫折するのか(永遠は無いのでいつか挫折がやってくる)」と読もうとしてしまって、目標を持つことが不可能に近づいていく感覚を持っています。

「自覚的」っていうのはキーワードなのかなぁ。やっぱり自意識過剰な中二が・・・w
まぁでも、ある程度場数こなしたら自分の到達点てわかるだろうしな。それでも到達してみて続ける判断を下せるか、っていうのが「情熱」というものなのかも知れない。
おーもーえばーとーおくにーきーたーもんーだー♪*6

スカイ・クロラ」は「断絶」と「不可能」の物語なので、「遠景・中景・近景」(これらの言葉は今覚えました)の間に抜けがあるのは必然と感じました。
「カンナミたちはキルドレとして生まれつき最終的にはティーチャに〆られるので戦闘飛行業界から絶対に出られない」という近景を前提にして、そこに「戦争」といった遠景が組み合わさっているので、それを繋ぐ中景に関わることが原理的に不可能なのです。
人間らしく出世をして社会に少しだけ近づく草薙水素視点を中心に進行している小説シリーズ中盤から後半(私は未だ3作目の『ダウン・ツ・ヘヴン』までしか読んでいません)では、このあたりの描写がかなり違っているようですが…
押井守の映画版は、大局的なもの(遠景)に対する絶対的断絶と関与不可能性をかかえていることを知りながら、それでもあえてあがくことで何かが見えるのかもしれない、いやきっと見えるはずだ、という投げかけの形で終わっていると読みました。
(この「あえてのあがき」に最近流行の表現で近いものを当てはめると「小さな成熟」でしょうか)

小さな成熟。この支配からの卒業?
てぃーちゃーあなたも名も無き大人のー、代弁者なのかー♪*7

箇条書きからキャラクター関連だけ。

・ササクラって女性だったっけ? もう少し技術者っぽさを出して欲しいな。
・フーコってあんなストイック系のキャラだったの? かなり誤解していたかも。
・トキノはもうすこし大人っぽい感じかと思っていた。
・キャラの外見についてだが、個人的には、草薙水素(クサナギスイト)はもう少しボーイッシュな感じが良かったです(鶴田謙二の絵が印象強かったというのもあるが)。
・映画では、草薙水素の魅力をあんまり感じなかった。原作(『スカイ・クロラ』及びその続編)では、このキャラの魅力で詰まっているのだけど。
・主人公である函南優一(カンナミユーイチ)のモノローグがもっとあると思ったんだけどなかった。なんか、これじゃいいやつだよなー。もうすこし、壁を作っているタイプって気がするんだけど。
・原作において、草薙水素及び函南優一はキルドレの中で、特出した飛行技術を持っている。映画では、あんまりわからない。
・原作において、別に函南は水素を愛しているわけではないと思うのですね。ただ、「同じ」だったから原作では最後の水素のオフィスのシーンで(略)。映画は同じ素材を多く使っているけど別のものって言う感じ。原作における、核となる主張が入っていない気がする。それを非難しているわけではない。監督の主張したいことがそうだったわけだし。

確かにあんまりエースっぽく強くは見えないんだよなー。ユーイチはいい子ちゃんでした。優し過ぎるんだよあの子はさー的な。でもそれってやっぱり「壁」なんだよねぇ。感情ぶつけないもの。*8
鶴田謙二といえば「エマノン」も永遠の存在でタバコ吸ってるなぁ。

先日、散髪しに行ったら美容師(♂・たぶん20代後半)と映画の話になったのだが、ここに思わぬ罠が潜んでいた。

「『スカイ・クロラ』見に行ったんですけど、ちょっと難しかったんですよー」

と相手がいきなり話を振ってきたので、オタクな私(♂・26歳)はどう応えたものか逡巡したのである。

美容師、それはスイーツ(笑)な女を手玉にとらんが為に修練せし者。

「なんかTVとかでかなり紹介されたりしてたじゃないですか、それで見に行ったんですけど、ちょっとねー」

「あー……そうですか」(あんなの広告代理店の仕掛けた提灯PRなんだが……真に受ける人もいるのか。うーむ)

「なんか見に行きたい映画ありますか?」

「僕も『スカイ・クロラ』見ようと思ってるんですけどね」(まあ原作付き押井作品だし、とりあえず見ないと)

「戦闘機のシーンは格好良かったんですけどねー」

「へー」(フォローきたw でも見るべきところはそこだよなー。個人的に期待してるよ)

「やっぱ原作読んでからじゃないと分かんないのかなーと」

「ああー」(いや、たぶん原作関係ないよ。だって押井だし)

ああー。そうじゃないっすかねー。戦闘機は良かったんすか、そーすか。あ、ワックスはやらなくていいです。

まず冒頭の小ネタにニヤリ。
いきなりものすごい空中戦シーンから始まるのだが、被弾した戦闘機散香(sanka)のパイロットがベイルアウト(緊急脱出)するシーンで、その直前に機体後部のプロペラが分離・投棄される。これはパイロットがプロペラに巻き込まれないための脱出シーケンスで、プッシャー機ならではの設計思想である。
実はベイルアウトのシーンがあったら絶対チェックしようと目論んでいたことだったので、最初っから満足してしまった(笑)

音もいい。本作ではまるでカメラプレーン(空撮機)が戦闘空域にいるかのようにカメラも動きまくっているので、音源の移動によるドップラー効果だけではなく、“スロットルを開ければエンジン音は高くなる”という本来当たり前の表現もあり妙にリアルだった。思えば『パールハーバー』もそうだったなあ。

機体がロール機動に入るときに主翼のエルロンがクッと小さく動くのも芸が細かいなと感心。余談だが押井作品では『機動警察パトレイバー2』での、スクランブル発進した空自F15J改の動翼作動描写が個人的に印象に残っている。

散香以外にもたくさんの架空機が登場するのもうれしい。中でも私が気に入ったのは染赤(someaka)と呼ばれる双発のプッシャー。ミツヤらが所属する他基地の主力戦闘機だ。いや〜これはツボ!主翼なんか私好みの前進翼じゃん。ううう、なんでこんなにカッコいいんだよ〜。散香目当てで出掛けた私は、染赤に惚れ込んで帰ってキマシタ。

また観る時があったら良く観察しよう。スロットル音ね。
エルロンはWiiのゲームでも再現すんのかなぁ。
染赤のプッシャ−で前進翼ってもうモロにバックする飛行機って感じだが、意図しないカメラワークも出てくるゲームではどういう印象になるんだろう。

仮に、カンナミ以後のキルドレが、あるいは他のキルドレティーチャーを撃墜する日が訪れたとしても、単に新たなティーチャーが操縦桿を握ることを促すだけであって、終わらない戦争という巨大なシステムに回収されるだけだろう。さらに、万が一、戦争が終わったとして、恒久平和維持のために要請されたはずの戦争が終わった世界はどうなるだろう。《キルドレ》だけを見ても、空がほとんど唯一の死に場所――つまり空だけがほとんど唯一の生きる場所であった《キルドレ》の危うい存在意義は、その時完全になくなってしまうかもしれない。いわば「呪われた運命」から、《キルドレ》が逃れる日は永遠に訪れないように思える。

その意味では、かつてエースであったが操縦席から降り、他のキルドレよりも長く生きる(そして子を持つ?)クサナギにこそ、可能性は託されるのかもしれない。カンナミはクサナギに"「君は生きろ。何かを変えられるまで」"と言った。正直なところ、それはクサナギにとって、煉獄の道を歩けと言われているようなものである。

がしかし、整備士ササクラの言葉を借りれば、"自分や他人の運命に干渉することを覚えた"クサナギの存在こそが、カンナミの決断を促したのだ。無論、それはクサナギに殺されることを選んだクリタにしても同様だっただろう。クサナギが居たからこそ――クサナギによって運命に干渉されたからこそ、一方は殺されることを選択し、他方はティーチャーに挑むことを選択した。そのどちらも見たクサナギは今や、他人の運命に干渉することだけでなく、自分の運命に他人が干渉してくることもはっきり覚えただろう。

クサナギからカンナミへ、カンナミからクサナギへ。今度はクサナギの番である。

「関わる」ってことの本質があるのかも知らんですな。この映画。
人に限らず何かの感触を確かめ成長することは生まれた時から続くのだ。人間は世界と対話する時間を与えられた生き物。

若さに絶対的な価値があるなら、若者の人生はこの先、ただ衰えていくためだけに存在するようなものだ。であるとすれば、かりそめの価値におぼれて、今ここで生を潔く終えることが、もっとも美しい生き方ということになってしまう。

だが、真実はそうではない。

若者たちは自分の若さに何の価値がないと知っても、絶望することはない。若さそのものには価値がないとしても、無知な若者が一日一日と年を重ねて、この世界で生き抜き、やがては一人前のオヤジになっていくことには、かけがえのない価値があるからだ。

押井守『凡人として生きるということ』

僕らはとりあえずのところとして、オヤジになった押井守が言う「真実」なるものを受け入れて生き続けるとしよう。しかし、その「真実」なるものは、僕らに新たに突きつけられた眼差し――力――でもある。"自己を導く術をよく知ることによって、彼は他者を導く術を知ることになるし、またそうでなければならないミシェル・フーコー著、田村俶訳『自己への配慮』"。オヤジたる押井守は、僕らが乗り越えるべき対象として居る。

なんだか悔しいので最後に付け加えておくと、オヤジになる闘争の過程に価値があるとしても、オヤジそれ自体には若さ同様、何の価値もない。

所与と結末は重要ではない。現在という状況と成長に、問題と価値がある。

計ってか計らずか「それ自体には何の価値も無い。」ということが繰り返された部分。
自分はどんなおっさんになっていくんだろうな。価値あるかな。
まぁなんだかんだで、大体全部出たか。
スカイ・クロラ、結構みんな注目してるよなぁ。それとも何か語ろうとする人に注目されやすいのであって全体からすると関心が薄いのだろうか。興行成績とかチェックしてないしなぁ。
まぁどっかには風を起こした作品だった。素晴らしきかな。

*1:レジスタンスの映画。パトレイバーでダンジョン話の元ネタになったりはしてないのだろうか?

*2:SION「カラカラ」

*3:タイトルだけで興味を引くwウズベキスタンの映画。

*4:幻のフィルムを求めてバルカン半島を旅するという、映画を材料にした映画。

*5:死のうとした男がさくらんぼ美味くてっていう・・・まぁ色々あるらしい。

*6:武田鉄矢。オラこんな基地ー嫌だ−、オラこんな基地ー嫌だ−、てぃーちゃーさぁー殺ぁるーだー♪

*7:尾崎豊「卒業」

*8:「ユーイチ君が先生を殺そうとしたなんて今でも信じられない。すごく大人しくて人の嫌がることもやってくれるし、目立ちすぎる感じでもなかった。地味だけど成績はすごく良かったし頭が良いんだって思ってた。気になってるっていう娘もいたけどちょっと暗いし私は違うな。」クラスメートA子の証言。