スカイ・クロラと自分探し

色々見てわかったよーな気がする。

スカイ・クロラは結局なんだったか。
ユーイチはスイトの為に自分が命を賭けることで、ただ繰り返すだけでは無いとスイトに示したかった。それを示すことで自分もまた、ただの繰り返しからスイトの為に命を賭けるという自分に変わる。無意味じゃなくなる。

君は人のために死ねるか」って歌詞の歌が昔あったんだよね。そいつの名はポリスマンなわけだが。
治安維持に命を張るにせよ、家族の為に自分の時間も犠牲にしてるお父さんにせよ、誰かの為に自分の生を使っている。
それができるのは、誰かが自分のやっていることを信じてくれると自分も信じているからだ。そういう意味では戦争中の特攻隊だって、目標に体当たりすらできずに撃墜されて無駄死にだったとしても、それでも今の若者より充実していた。

自分のやってることに意味が無いなんて耐えられない。誰でもできる仕事をやって、景気が悪いとすぐ用済みになる。必要とされてない。そんなのがいつまで続くのかもわからないまま不安に過ごす。
特に必要じゃない。自分が無価値という現実。それに耐えられない時、人は現実を壊す力が欲しくなる。秋葉原であいつはナイフを用意してトラックで突っ込み、自分の現実を轢き殺した。刺し殺した。
彼女がいない自分はダメだって思ってたそうだけど、女なら誰でも良いわけじゃない。その彼女っていうのは彼にとってのスイトじゃないとダメなんだ。

社会なんかどうだっていい。自分がいったい何人目のエースかもわからないユーイチだから。どうせ替わりが効くのはわかってる。
だから「殺して欲しい?それとも殺してくれる?」というくらい個人的に、自分だけに向けられた望みが無くてはいけない。そこに応えてこそ、自分には意味があるのだから。
それが、あの事件の時誰かの言った「承認」の中身だ。
親ではダメだった。普通に良い大学出て、普通に良い会社に就職して、普通に良い人生を送って欲しい。そういう「普通」を希望する親は、替わりの効く自分であることを疑問視しない、特別であることを望まない。「平凡で良い」という優しさが仇になった。
彼にとっては「アンタは替わりの効く無価値なアンタで良いんだよ。」と言われているようなものだった。それでは救いにならなかった。
普通の親は、普通の社会性を期待するからダメだ。だから、社会的じゃ無い、むしろ反社会的なぐらいの恋愛で、心中でもするぐらいの勢いで必要とされたかった。
そうじゃないと自分が特別に価値のある人間だと信じられなかったから。親が自分を特別必要としているとは信じられなかった。
彼はきっと親や学校に教えられて身につけた自分の姿と違う「本当の自分」を「彼女」に認めて欲しかった。

リストカットとか服薬とかで死にかけた人が、親に泣かれて踏み止まる場合がある。
生きている意味がわからなくて、死のうとさえしている自分に、そこまですがりつくとは予想外だったのかも知れない。親というものがそうだという話の上では知っているが、激情に触れて初めて実際に気付くのだ。
親は親で、感情をぶつけるのはいけないと思って距離を取っていたりするのもまた、そういう家庭の姿だろう。仮面の付き合いだ。大人になりかけた子供とどう付き合うか、親も難しい。

こんなのがあった。
わが子を自分探し病から守る 前編

私は「あいのり」という番組が大嫌いですが、好むと好まざるとにかかわらず、時代の空気というものは誰もが影響を受けてしまうものです。そして、テレビ番組は時代の空気を映す鏡です。極論すると、我々の世代の全員が自分探し病の患者か予備軍なのです。

ねるとん」のキーワードは「三高」、「あいのり」のキーワードは「本当の私」、ここに世代間の意識の違いがくっきりと現れます。

「高身長・高学歴・高収入」と恋愛成立の条件を「相手」に求める「ねるとん」に対して、「あいのり」は「本当の私を分かってくれる人」といった具合に、一見すると相手に求める条件のようでいて、じつは「自分」の内面的なことがすべてであるという違いです。

向かい合った二人の間だけでお互い内面をさらけだす。二人だけがお互いの本当の姿を知っている。そんな恋愛。

「あなたは私を幸せに出来るの?」

そのあまりにシンプルな問いと向き合ったおかげで、私の自分探し病は悪化しないですんだのかもしれません。

問答無用、逃げ道を許さないで正面に立って「試す」関係。私に本気で関わる気があるのかと覚悟を強いる関係。

要するに、「誰にも負けない何か」なんて見果てぬ夢であって、それを目指すことは悪くないけれども、それを必ずつかめるはず、それをつかんで初めて幸せになれるなんて考えるのは大間違いだということです。

でも、なにか確かなものが欲しい!

そこで頭に浮かんだのが、「誰にも負けない何かなんて何も無い」妻が、私にとってかけがえのない存在であるということでした。

私にとってのみ価値のある相手。逆に私にとっては替えの利かない相手。

妻を背中に乗せていなかったら、私は壁に激突しまくって瀕死の重傷を負っていたことでしょう。

一方で、私の背中に乗っていなかったら、自力で前に進むのが苦手な妻は、その場に座り込んでため息ばかりついていたことでしょう。

今となっては、これ以外考えられない組み合わせです。

「誰にも負けない何かなんて何も無い」妻ですが、私を操縦することにかけてだけは、誰にも負けないわけです。

私がいることに意味を持っている相手。私に意味を感じさせる相手。

自分らしさの大切な要素だと思っていたものを、それぞれが泣く泣く諦めたりして今があるのです。そして、これからもぶつかり合いは続きます。

そうなんです。ぶつかり合いは続くんです。あらゆる状況は常に変化していくわけで、最高の関係を築き上げたつもりの私たちの間で、微調整どころではないぶつかり合いが、これからも発生し続けることは間違いないのです。

結局は、個人と個人とが直接ぶつかり合って作り上げた関係性の中にしか、確かなものなんて無いというのが私の結論です。そして、それは常に揺らぎ続けるものであって、確かなものにし続けるために不断の努力が欠かせないものなのです。

ぶつかり合うほど相手に求める、それができる相手。

私たちが探し求めている「自分」というのは、結局のところ「存在意義のある自分」なんですよね。

そして、それは「自分の適性を最大に生かして仕事をすること」とか、「誰にも負けない何かを身につけること」とか、「自分のすべてをありのままに受けて入れてくれる恋人と出会うこと」とかではなくて、「大切にしようと決めた人と、お互いがお互いにとって大切であり続けるためにもがき続けること」でしか手に入らないものなのです。

もがく。ぶつかる。傷つける。それでも大事で。また傷つけてしまうことまで覚悟した相手。それでも大事にしようと決めた相手。

実は平凡な関係だろう。結婚して子供もできて、一緒に悩んで暮らしていたら、問題を解決する過程でぶつかりあうのは当たり前だ。それができない、耐えられない夫婦は別れる。それでもお互い傷だらけにしながらだんだん理解を深めて、ぶつかるまでも無い雰囲気になるんだろう。だけど相手も変化していて、一緒にいても気付かない部分はまた火種になる。そんなもんだろう。

秋葉原で盛大にぶちこわしを計ったアイツが望んで得られなかったものは、特別じゃ無かった。みんなが平凡に手に入れる、その人にだけ特別なものだった。

キルドレには「自分だけの特別な価値」なんて見つからない。繰り返す生。同じ癖、同じ才能を備えて生まれてくるキルドレは「自分探し」の答えになる「自分」が奪われている。彼は自分自身の個性に求める限り、替わりが利く存在であることから逃れなれない。

僕が仏教的だと感じたのも無理は無かった。無常無我のうち「無我」の方が強烈に表れているんだ、キルドレっていうのは。
無我とは、「常住不変の実体」としての「我」が無い、ということ。自分なんてものはあやふやで頼りないものなんだということ。
「個性の時代」に育った若者の不幸は「本当の自分」を求めてしまうことにある。
なんとかしてアクロバティックにでも「自分だけ」を獲得しようとして、奇怪なファッションに身を包んだり奇異なパフォーマンスに興じたり、お前だけだよと言ってくれる相手に騙されつづけたり。
若者って奴はいつだって特別でありたいんだ。
だけど、押井守が年を取って手にしたものは別に特別ではないことだった。他人は特別な人だと思っても、多分本人は違う。押井さんというのは自分に才能があるとは言わない人で、ずっと映画を真似てきたと公言してはばからない、要するに努力の人だ。
積み重ねてきた「経験」によって自分が必要とされる、仕事という「空」。押井守は友人なんて必要無いと言った。自分の経験を信じてくれる仕事仲間がいれば空で戦える。
そして地上では恋愛。

結局押井守の言いたいことは、特別じゃなくても仕事をして必要とされるまで経験を積みなさい、ということだ。恋愛は望んでも得られるものじゃない。だけど自分を大切にしてくれる恋人が見つかったらその人の為に命を賭ければ良いということだ。
平凡に生きて、自分だけの特別を見つけて、また平凡に生きて死ぬ。それだけのことだ。
これを「終わり無き日常を生きろ」と受け取るのは半分正しくて半分間違っている。
「終わり無き日常」は前進しない。平凡な人生は少しずつ前に進んでいく。目に見えないほど小さくても確かに変わっていく。
意味の無い日常が繰り返すのは辛い。必要とされていたい。しかし必要としてくれるのは、何かをするという意思を認めてくれた人だけだ。
意思を示すには何かをしなければならない。「幸せにする」なんて言っただけで何もしないなら愛想が尽きる。何かをするには時間が必要になる。
メメント・モリ
死すべき人間であることを忘れるな。時間は限られている。何もしなくても残り時間が減っていく。
その減っていく時間に何かを積み重ねて提示できた人間だけが、積み重ねた時間の重みで意志を計って貰うことができる。それが経験と実績、何かをしてきたということ。
最初から意味があるかのように探したところで「本当の自分」は何も持っていない。そこにあるのは、歩いてきた道筋だ。時間の中で拾ってきた意味だ。
だから意思が問題なんだ。これからも時間の中で意味を積み上げて歩くことでしか、自分を示すことはできない。
自分を探すな、自分を積み上げろ。中に探すな、外を拾って歩け。死ぬな、死を覚悟して生きろ。
なんでもいい、とにかくやり続けろ。多分そんなところじゃないのかな。