面白い人みっけ

スカイクロラに言及してるところを探していた時、なぜかは忘れたがこれを見た。

 人間とは、常にこうしたものだ。あれは俺がよく知っている人間の姿に実に近い。よろしい。だから人間は、モノだ。理性を持ち、なけなしのプライドを持ち日々を懸命に生きるような、尊い存在ではない。本能に突き動かされ、そのことを知性によって正当化する、自然界でもっとも下劣な、クソのような生物だ。ああいうものの存在は、俺のそうした人間観を肯定する。

 見ろあれを! あれが人間だ!

 俺があげる歓喜の声には、しかし胃液のすっぱさが混じっている。俺は、嘔吐を繰り返しながら歓喜の声をあげる。それがまったく無意味であることを知りながら。

 今日は、万引きをつかまえた。小学校高学年の男の子だ。例の母親には連れ子がいたが、父親にもまた連れ子がいた。それがこの男の子だ。環境を考えれば同情の余地はあるかもしれない。しかし万引きは万引きだ。保護者を呼ぶしかない。しかし俺は言い出しかねた。父親はあの状態であり、母親はおそらく塀の中だろう。書類送検くらいで済んでいるのかもしれないが、いずれにせよ最近は顔を見ない。この土地にいないことは確かだと思われる。

「警察呼べよ。だれも、迎えに来ねえよ」

 それは、呪いの言葉だった。

 俺は、力が欲しい。すべての理不尽な運命を原子のレベルまで粉砕できる圧倒的な力が。数日前、男の子の親が別に死んでもいいと思った俺は、それでも、男の子に呪いの言葉を吐かせたすべてのものを、拳の一振りで粉砕したい。

 俺は、運命のように圧倒的な力の拳を持っていない。さりとて、まったく無力でもない。今日より明日、明日より明後日。俺は常に力を欲し続けるだろう。

全体を見て貰えばもっと色々あって、まぁなんともすごく暗い話で、そして怒りに満ちているのだけど、その怒りというのもまた、当事者達に向けても人間とはそうしたものであるからどうにもならないし、自分はそこまでする程現実と向き合いたくはないというような、否定的感情に彩られた暗い怒りであり、向けるべき対象を見失ってどこへも向かえずに漏れ出る怨嗟のような怒りがある。

僕は結構こういうのに引き寄せられてしまうところがあって、つまり暗いのだが、そういえば随分前にも、どこへ向かうともない暗い怒りを抱えた人の文章を読んでいたと思い出す。

見つけた当初は好んで読んでいたけどしばらくしてやめた。
まれびと氏はロックが好きで反米だった。繰り返し語られる「間違った戦争」やら社会の「枠組みへの反発」にうんざりし始める。そこでいつも権力側は間違っていて弱者は正しい。当事者が現場で語る言葉を信用しきった物言いに見えてしまう。片側だけ信じるなら反対側の保守とそう違わない。
要するに感情に沿って政治が語られることに辟易したのだった。人柄は嫌いじゃない。むしろこういう人が自分の醜い面まで吐き出して語る姿は好ましく感じた。
色々な事が理不尽だと感じながら生きている。それをそのまま語っている人を見るのが好きなんだろうな。
今回見た人というのも、読んでいくとそういう部分が沢山感じられて良い。しかもそれだけでは無くて、結構面白く書こうとしているものもあって実際面白い。

 相手がやばい人の場合、事前に警察を呼ぶことを指示しておいて、相手を挑発して殴られる覚悟で出て行く、というのもひとつの手なんですが、まあおばちゃんだし。そこまでのこともないだろう。話をじっくり聞いてみることから始めよう。俺はそう考えて売場に出ました。

 しかし、売場に出ていって、レジに張り付いているおばちゃんを見たとき、俺は、ああ、終わった、と思いました。

 どこも見てない。焦点がまったく合ってない。

 いや、どこかを見てるのかもしんないんですけど、それは俺にはちょっと到達できない3.7次元くらいのところだと思いました。二次元にばっちり焦点合っててわがままな幼女に僕の汚い童貞ちんちんを叱ってほしいなんて思ってる人間に、相手もこんなこと思われたくないかもしれませんが、きっと俺のほうがまだ仲間多いと思うよ。あなたに仲間いないね。さびしいね。

 これはまちがいない。チューニングが現世ではなくて神秘的な世界にばっちり合ってる人特有の目です。やっぱりさびしくないかもしれないね。

 そして服装がおかしかった。防犯カメラ越しに見ても充分におかしかったんですが、直に見るとすごい。しまむらの地下にある暗黒部かなんかを背負ってこの世にあらわれた邪神みたいなすごい服装。色彩がサバト。なんていったらいいんだろう、しまむらですら売れなかった398円の服をありったけ身にまとった結果、総額としてはけっこうな金額の服着てるよね、みたいな。

しまむらの地下にある暗黒部」「色彩がサバト
いちいち面白い言葉を考える人だw

 紙を大きく四等分するように十字の線が引いてあります。第一象限から第四象限ということですね。で、その十字が交差する中心に、大きく赤いサインペンで「カロリーメイ○」と書かれています。んで、紙の四辺に沿って「神の英知」「怠惰なる烏」「海からの預言」「真実の経典」などの謎タームがびっしりと書かれていて、それらの謎用語から、まんなかの「カロリーメイ○」に向かってぐにゃぐにゃとした矢印が無数に引かれていて、その矢印のひとつひとつに、ハイテックCでなければ書けないような細かい文字で「環境ホルモン」っていっぱい書いてある。ちなみに紙の上半分が「霊性界」で、下半分が「地上界」だそーです。どうもおばちゃんにとって、カロリーメイ○は宇宙を構成する基本要素かなんかくらいには重要っぽいです。だって中心にあるし。赤いし。

 そんで、極めつけには、画面いっぱいに無数に書かれている小さな丸。そのひとつひとつに「浮遊する環境ホルモン」「浮遊するマイナスイオン」とか注釈がある。とりあえずぜんぶ浮遊してるらしい。うぜえよ。

 もう、ひとくちでいうと、すっごい怖い。絶対この紙触ったら呪われる。だいたい環境ホルモン神の英知から来てるじゃん! うちの店ぜんぜん関係ないじゃん! てゆうかおまえどんだけ環境ホルモン大好きなんだよ!

ナイス突っ込み多数。

「申し訳ございませんお客様。当店のストローは、神の原初のエネルギーを吸い上げた際に、そのあまりの力に耐え切れなかったため、13次元に飛ばされてしまったのです。ですから当店では環境ホルモンを注入できません」

 当時の俺は重度の非コミュで、仕事以外の話なんかバイトともまともにできないくらいだったのですが、どうせ話が通じないのならば、どこまでも突っ走れるという特異体質でもありました。

「そ、そんな。ストローないの?」

「あったんですが、霊性界のエネルギーに耐え切れなかったのです」

「で、でも現実に健康被害はあったんですよ? どうしてくれるんですか!」

 いきなり現実に戻るなよ。

「それが神の英知の御業とは考えられないでしょうか。私は代々クトゥルフ神を信仰しているので、詳しいことはわかりませんが。テ・ケリ・リ、テ・ケリ・リ……」

「はあ? あんたなに意味のわかんないこと言ってんの?」

電波に否定されたw

 ねえ瑠璃子さん、晴れた日の電波ってやっぱ高いところ飛んでるよね……。地上まで降りてこないよね……。

何気に懐かしネタが混入。

 要するにカチャカチャという金属音はベルトを外す音だったわけです。固いはずのジーンズのボタンを外されて、おじさんがトランクスを哲学的な顔で見つめている(いや、どんな顔してたのかは知りませんが)その瞬間になっても、俺はまだ寝ていた。

 やがて、下半身、というかありていにいって陰茎のあたりに、なんかこう、童貞の俺が知る由もない感触がありまして。具体的にいうと、おじさんの手が、柳龍光の空掌のようなかたちを作って、すっぽりと覆ってるわけです。俺の、その、なんていうか、肉棒および陰嚢的なものを。その段階ではまだ、あれ、なんかちんちんのあたりにワンダーなことが起こってる、くらいにしか思ってなかったんですが、次の瞬間、俺の全神経は完全に覚醒しました。

柳龍光って毒手しってるの前提ですかw

 おじさんが、俺を猛追してきます。自慢じゃないですが、俺は、持久力こそないものの、50メートル走なら7秒切るので、そう足の遅いほうではないです。その俺を40がらみのおっさんが猛追してくるのです。しかも間隔縮まってる!?

 やべえホモ足すげえ速え!

 絶望的な思いにとらわれながら、俺はなおも走ります。おじさんは俺を猛追しながら、しかも叫ぶ余裕すらあるらしいのです。

「やさしくするからぁ!」

 深夜の駅前に、獲物に逃げられたホモのおじさんの絶叫がこだまします。怖い。ものすごく怖い。やさしくされてもお金もらってもいやなもんはいやです。俺は律儀に返事をしました。

「し、始発がありますのでーーー!」

「まだ深夜の3時だよぅ! 始発動いてないよぅぅぅぅぅ!!」

 始発とかわけのわかんない言い訳してる俺も俺ですが、北関東式アクセントで返答するおじさんもおじさんです。始発動いてなければどうだというのか。やさしくするというのか。

全力疾走しながらの会話。まるで映画のようだw

 そのとき以来、俺は痴漢とか強姦とか、そういう性犯罪は絶対にだめだ!と強く確信するようになりました。そんな面白経験でか。

ちょっとまじめな話も。

無防備なおまえが悪い、といわれればまあそのとおりなのかもしれませんが、じゃあ、いつも防備しながら生きていかなければならないっていうのはどういうことなんだ、と。初期条件として、男も女も同じ人間であるのだとして、確率的には女のほうが、今回の俺のような目にあう可能性は高い。必然的にそのぶんだけ、余計な防衛意識を持って生きなければならなくなる。そんな義務をだれが負わせる権利を持っているのだ、ということです。

 ちなみに今回のテキストではホモの人すっごいおもしろい的な感じで書いてますが、俺には同性愛者への偏見は基本的にないです。ゲイでもヘテロでも襲う人は襲うでしょうし、そうしない人のほうが多数派ってだけです。

 でもねー、20年近くの歳月が経ったからネタにもできるけど、当時はほんとに怖かった。思い出すだけでも。

まったくですな。襲っちゃいかんです。

 ここではネタっぽく書いてますが、小泉くんが、それこそいまどきの高校生には珍しいくらい一本気で、なんだかよくわからないけど「男らしさ」のようなものを目指していること、平野さんもそんな小泉くんを理解していて「小泉ってバカだよね」とか言いながらもそんなに嫌っていないこと。そういうのは見てればわかります。まあこの二人なら付き合っても平気かな、と思えました。なんていうか、二人でいる光景がとても「収まりがいい」んですよね。幼なじみってのはそんなもんなのかな、と。えろげのなかでしかそういうものを知らない俺も、なんとなくほほえましい気分で地球爆発しろ。すいません、まちがえました、見守ってもいいかな、と思えたんですよ。地球爆発しろ。

 言うだけのことは言った。そんなさっぱりした顔で、小泉くんが立ち上がりました。椅子の脇に無造作に置いてあった詰襟の制服を持って「お先に失礼します」と言ったとき、制服のポケットからなにかが落ちました。

地球爆発しろ。

 小泉くんは、斜め下を見て、少しだけ陰のある表情で言いました。

「お守りです」

 へー。お守りなんだ。

 でも、それ、名雪だよね。Kanonの。名雪のキーホルダーだよね。

ちょwww

名雪、好きなの?」

 俺はときどき、こういう踏まなくてもいい地雷を平然と踏み抜くことがあります。最近じゃやらなくなったんですが、昔は頻繁にやらかしてました。

 小泉くんは、俺をじっと見て、やがてなにかを悟ったかのように視線を落として、言いました。

「そうです。だから、平野とはつきあいません。そういう理由、ないっす」

えええ。

 この話はここで終わりです。別にどういうオチもありません。ただ思うのは、ああいうフィクションへの激しい思い入れっていうのは、別にコミュ力とは関係なしに持つ人は持っちまうんだなあ、と。小泉くんは、だれがどう見ても好青年だったし、友だちもけっこう多いはずだし、この話の時点よりも半年くらい前には彼女いたはずです。ごく短期間で別れたはずなんですけど、この話の流れで行くと「名雪を好きだった。しかしそれではいけないと思ってリアルの女の子とつきあってみた、でもだめだった」というふうにしかならない。

 ああいうのは、なんなんすかね。二次元の女の子を好きになっちゃうっていうのは。必ずしも「現実の代用品」とばかりはいえない側面を持ってるんじゃないか、と疑問に思った瞬間でした。

代用ではなくて別のもんなんだろーなぁ。
この人、創作もなかなかです。

ねこ「なんか今日、すげえ寒くね?」

いぬ「ばっか、おまえそれ猫だからだよ。犬へいき。ちょうへいき。余裕すぎ。雪降ってもいい」

ねこ「ちょうへいきとか調子こいてんじゃねえよ。雪いらねえよ。ちょういらねえ。おまえこたつ入れねーもんな。こたつすごいよ。こたつ入ったらあまりの気持ちよさに魂抜けるよ? そして抜け殻となった俺の魂に過去からの邪神が……」

いぬ「ばっか、おまえ三毛猫に入る邪神とか頭わるすぎんだろ。猫神様かよ。体長50センチのね・こ・が・み・さ・まwwwww ねえって。犬来たら逃げるね。猫神様ちょう逃げる。にゃー」

ねこ「……もう許さん。俺にはもう、自分の中の邪神を抑えることができない……」

いぬ「うわー猫神さま爆誕wwwwwwwwちょうこええwwwwwwいぬ即死wwwwwww」

ねこ「貴様の昼ごはんのなかにねこのドライフードを仕込んでおいた……」

いぬ「フォントwwwww別人格の表現wwwww 攻撃ショボすぎwwwwwwなのに地道に痛えwwwwwwww」

超和むw
こちらは自称変態を存分に生かしております。

 「ゴミ箱を妊娠させるおつもりですか?」とゴミ箱に貼った紙は逆効果だった。もはや擬人化技術の粋を極めた俺にとって「どうせ私、ゴミ箱ですから……」と呟く卑屈でちょっと陰気な少女を連想することはたやすかった。ならばやることはひとつ。ゴミ箱を妊娠させればよい。

 しかし、それもむなしい。現実にはゴミ箱は単なるアルミ製の箱であり、そこに積みあがっているのは、一部が変色したティッシュペーパーの山だ。

 そう。この空虚な気分。賢者タイムとはよく言ったものだ。

素晴らしいw

 人類の母なる大地、アフリカに、俺の精液が吸い込まれていく。ゴミ箱を妊娠させる? そんなチャチなことはどうでもいい。いまこの瞬間、俺は地球を妊娠させた。

 俺は、俺こそは、世界でいちばん雄大なオナニーをした男だ!

谷川俊太郎の詩集にあった富士山のホテル跡かなんかで「精虫を解き放つ」ってヤツ思い出した。
なかなかどうしてこういうのってブンガクなのかもしれず。
この人、文章書くのも読むのも両方好きということで作品の感想や評価も沢山あります。

 この作品のキモは確かに経済の部分なんですが、それと同じく、あるいはそれ以上にたいせつなのが、風が波紋をつくる麦畑の黄金色だし、町の雑踏であるし、商人という、ある強烈な倫理をもった職業集団の存在だと思うのです。まあ、個人的には、商人という存在が社会のなかでどんな立場にあるのか、ということまで言及してくれればよりいっそう「ああ、なるほど」という感覚は強くなったと思いますけど、それとても瑕疵のレベルでしょう。

 異世界を吹く風は、この日本の、神奈川県の風とは違うのだ。俺はそう信じてますが、そういう意味で、ひさしぶりに「異世界の風」を感じさせてくれた作品でした。経済小説がどうこういう前に、この作品は良質な異世界ファンタジーだと思った次第です。

昔ラジオであかほりさとるが小説の選考委員をやる時の話をしていて、
「ファンタジーで森があってエルフが出てきたら読むのやめる」って言ってた。
要するに世界観ってそういうことじゃないんだよねって話です。

 ごく大雑把に括ると男性向けと思われる作品で、こういう関係が登場してくるっていうのはおもしろいですね。なおおもしろいのは、ロレンスは対等たらんとがんばっているのに、結局はホロのほうが上っていうこと。この「がんばり」から降りてしまうと、さまざまな歪みが発生する、という透視図が見えるあたりもまたおもしろい。

 余談だけど、本来こうした「自己責任」の感覚というのは、「おまえはなにができるのだ」という苛烈な問いのもとでしか発生しないものだと思うんですが、そう考えると、若年層における「サバイブ」の感覚はかなり強いんだろうなあとか思った。実際は「俺はこういう機能をもってます」というのは存在の基盤としては脆弱で、このへんは、最近の高校生を見て感じる「繊細さ」の一因なんだろうなー、とか。

こういうの見ると読みたくなってくるなぁ。
ライトノベル以外にも年季の入ったオタクとして色々な話をしている。

 そーいや最近、超ライトオタクがどうこうっていう議論を見かけた。はやってるらしい。既出すぎる意見だろうけど、ほんとSFの拡散と浸透のときと似てる議論だよなあ、と。俺は「オタク」という文化圏そのものが消滅する派。なぜならオタの文化って様式美だから。様式美を維持するためには、その精神に忠実な人が一定数いなきゃだめで、その人数を維持するためには文化圏が必要だから。ニワトリとタマゴだから。文化圏はそのままで世代なので、新規流入者はいない。いたとしても、そこからは「様式美」が別の形式になる。いまでもハードSFと呼ばれるものは存在してるんだろうけど、中身は変わらないとしても、一般文芸のなかに取り込まれてるような印象。少なくとも大文字の「SF」ということに意味がなくなってると思う。SFは、SF者でなければ理解できないということはない。こばやしひよこは(その出自は別として、現在は)オタク文化圏から外れているが、ひだまりはオタク文化圏。違いは「やりたい」という欲望の達成のために、どれだけ迂遠なルートを通っているか。その迂遠さ、回避ルートの様式化が「萌え」っていうことであり、オタク文化圏に属するものは、多かれ少なかれ「萌え要素」を内包しているという定義。で、この欲望の迂回ルートの様式美を理解し、再生産できる人が少なくなって、文化圏としては消滅する、だけど、作品単体としてはいくつもそういうものは残り続けるよね、というような印象。ふつうにね。方法論として「オタ的」なんだけど、掲載誌はマガジンスペシャルみたいなそんな状況。

萌えなんとかがSFと同じ道をたどってオタク文化圏が消滅とな。一時代の文化として収束していくのか。

 実際のところ「オタクの文化圏」なんてものが存在するかどうかは知らない。現在でもそんなもの幻視なのかも。でもまー、シャナ、ゼロ魔狼と香辛料、ひだまり、らきすたコードギアス、まあなんでもいいや、そういうものを共通言語とする集団っていうのは確かにあるんだと思う。ここにエロゲが入らない時代が来るっていうのは、10年前には考えてなかったよなあ。鍵は別格として、エロゲってジャンルそのものは共通言語じゃないでしょ、もう。萌え要素の揺籃の地だったんだけどね。そんなことを繰り返すんだと思う。

既にエロゲが道を示していると。
移り変わりということではこれ。

 過去に拘泥される人というのは確かにいて、それは「ジャンルの黄金期」に立ち会ってしまった不幸というのも内包してる場合が多いとは思う。俺が詳しいジャンルって少女マンガくらいしかないんだけど、24年組の全盛期を知ってる人って、それ以降の人間の深みに到達する意志を持ってないようなマンガに対して否定的だってのは確かにあった(もちろん人による)。実際は80年代にだって90年代にだっておもしろい少女マンガはいくらもあったし、近作だとハチクロみたいな傑作だってあったわけだ(ただ、いま現在は、少女マンガというカテゴリそのものが無効化されそうなくらいにはジャンルとして衰退してるって事実はある)。

 でも、黄金期を知ってる人は、たとえばLaLaで、「綿の国星」が実際に掲載される現場に出くわしてるわけでしょう。俺はいちばん最後のころを少しだけリアルタイムで知ってるに過ぎないけど、リアルタイムでホワイトフィールドに出くわした人の衝撃って、やっぱり相当のものだったと思う。それこそ魂に刻まれるくらいに。あのリリカルマジカルダークネスでファンタジックで少しだけニヒリスティックでそれなのにやさしい、というあの雰囲気。もうそうすると、その人にとって「綿の国星を越える綿の国星のような傑作」っていうのは、まず出現しない。魂に刻まれてしまうという事件性もそうだろうし、フォロワーズはオリジナルを越えないという単純な事情にも拠っている(そしてまた別の「オリジナル」が出現する)。なんかビートルズ以前と以後みたいな話になってるけど。

 でまあ、よくある話で申し訳ないんたけど、ジャンルにも黄金期があるように、個人にもやはり黄金期はあるということ。読書の黄金期とかよく聞く言葉だし。そういう個人史としての黄金期とジャンルの黄金期とが結婚しちゃった人は大変に幸福で、そんでもって不幸ですよね、という話。

つい「ゆとり乙」なんていっちゃうのもひとつの不幸ですか。

 「嵐の夜」は、たぶん一度きりだ。だから貴く、また美しい。別に愛するっていうことは、それ以外のすべてを価値なしとすることだ、なんていう気はない。でも、嵐は、魂に傷を深々とつける。そして、傷が要求する。癒せ。この傷のかたちと同じものを我に与えろ、と。そして同じものは二つとない。だからほかのものはすべて無意味になってしまう。それだけの傷を持っていることは、とても幸福なことであり、同時に不幸なことであるかもしれず、結局はただ単に、その人自身のかたちがそのようなものに変えられてしまった、ということなのかもしれない。

うむうむ。

 つまり、こういうの、青春っていうらしいよ。

 そんで、まあ、えろげに限らず、だけど。

 青春を「こんなもの」に費やした馬鹿野郎ども。後悔してるか?

 俺は、カケラも後悔してねえ。

かっこいいじゃないですか。
さてと。
この辺からはついてこなくても良いゾーン。僕が好きなだけ。半分単なるメモ。

 社長、あなたはなにもない状態から自分ひとつの手で年商7億の会社を作ってきた。そりゃ確かに努力はしてきただろう。苦しいこともあっただろう。しかし会社が成長していくのは楽しくなかったのか? 大きくなった資本を元手に次の事業を考えるとき、あなたの頭にあったのは「この苦しい人生というものをどうやってサバイブするか」という義務感だけだったのか? 人生は楽しくないのか。幸福はそこにはないのか。生きていることが苦しいならなぜあなたは生きている。あなたの人生の幸福は老後にしかないのか。老後に幸福になるためにいますべての荷を背負って息も絶え絶えに歩いているのか。あなたはなにの犠牲になってそんな苦労を好んで背負っているのか。

 そんなことはばかげている。俺はそう思ったんだと思う。

 以前ついったーで、日刊ゲンダイっていう新聞が嫌いでたまらないということを書いたことがあるんだけど、あの新聞は「社会の犠牲になった俺」は「社会に対して恨みを持つのは当然だ」という理屈でできていて、そこがものすごく癇に障るんだと思う。

 学校があるから、仕事があるから。そうやって俺たちはいつでも社会にあわせて体のかたちを変えられていく。その過程で覚えた「快適な生活」は麻薬だ。人はそうやって「いやいやながらも」自分の精神を変質させられたりしながら、飢えない生活のためにがんばらされる。いまさら人は野に帰れない。そうした社会に自分の精神をぴったりフィットさせるもよし、逆ギレして「もっと俺がこの社会を快適なものに変えてやんよ」と夕方の海に絶叫してもよし。けど、前提としては「いやいや参加させられた」から、人はフリーライダーなんてものを憎んだりもするし、自殺というかたちでの脱落者を許さなかったりもする。それは「みんながいやいやながらもなんとか維持しているこの世界」に対する絶対の告発だから。

 まあ、実際のところ、この文章で発した苛立ちまぎれの問いの数々には、もちろん自力で暫定的な答えは導き出せるわけですが(そうでないと社会のなかで生きていけない)、それに40年近くも納得していないということは、俺は本質的にはその答えを認める気がないということです。人は自由なんだ。たとえどんなに束縛されていようとも、心のなかに風が通る空間は残しておけるんだ。巨大ななにかに叩きつけるような気分で、俺はいつでもそう絶叫したいのだと思います。

 まあそうは言っても、幸福のかたちは人それぞれです。残念ながら俺はそれを否定できない。なぜなら、それやったらどこかに存在するかもしれない電通様と同じものになっちゃうから。実際には、ひさしぶりに家族揃って過ごすのんびりした夜がどこかにあり、去年のクリスマスから付き合い始めて今年で一年になるカップルがみなとみらいの片隅で幸福をかみしめており、子供へのクリスマスプレゼントを抱えてなんとか今日中に家に辿りつこうとする父親の汗があるかもしれない。そうした無数の幸福の胞子のようなものが空中に漂っているとして、俺にはそれを否定する権利はとうぜんない。

 なんていうんだろう、メッセで会話してると「相手がいることはわかっているのに、いることが実感できない」んです。あたりまえなんですけどね。姿見えないし。でも廊下(とも呼べない狭さだけど)一本隔てた隣の部屋ですよ? その状況だと、自分の言うことはより明確でなければならないし、相手の言うことはよりよく吟味しなければ、そこには必ず誤解が発生する。

 ネットって、つまりこういうものなのかなー、と漠然と俺は思ってたりしてます。それもまた「場」の一種なんですが、そのなかで人は「制約された」顔しか持てない。主張しなければ、顔のかたちさえ保てない。そして、やはり明確なかたちの顔を持っていない相手になにごとかを主張したり、あるいは求めたりしている。そして、なによりも、そこにはとんでもない数の人間がいる。だれに「俺」が届くのか、だれが「俺」に届くのか。そこに自分の意志が介在することは、ある程度は不可能ではないにせよ、最終的には偶然か運命みたいなもんだと思います。少なくとも俺自身は、そうやってネット上でいくばくかの知人を得ました。

 俺は、こうしたことは、信じられないくらいにすばらしいことだと思っています。このことは、強調しすぎるくらいにしてもいい。なぜなら俺は、リアルで心を許せるような知己を持ったことがほとんどないからです。だれにも俺の言葉は届かないのだと、ほとんど絶望にも似た気持ちを持っていたからです。

 以前にも書きましたが、俺は、音楽や文章や絵や、なんでもいい、そうした「特定のだれか」のためでない表現というものは、すべて「ここにいるだれか」に届かなかった言葉や思いを「ここにはいないだれか」に届かせようと、ほとんど最後の手段として選択されたようなものだと思っているし、そうであってほしいとも思っています。社会化されない内奥の叫び、とかなんかかっこつけた言葉で書いたような気がする。だれかと共有できる言葉、思いは、共有すればいいのです。

 俺は、もうずいぶんと長いこと「自分だけのため」に文章を書いてきた。それはストレス解消であり、死にたくなる自分の心理を分析して自分を死なないようにさせるための思考ツールでもあった。暇つぶしで趣味で、あえて嫌いな言葉を使うのならば生きがいですらあっただろう。

 以前にも引用したが、「ホーリーランド」というマンガで、威力を失った自分の拳に力が戻ってきたとき、主人公のユウが拳を聖なるもののように掲げて「これは僕の神様だ」と言うシーンがある。俺にとっては文章を書くことがまさにそれで、だからこそ、文章を書くことは俺にとっては「自分のため」でなければならなかった。ほかのだれのためでもない、ただ自分を生かすための、自分を癒すためだけのかけがえのない道具である必要があった。

 その趣旨を、少し曲げてみようと思う。今日まで、ただ自分のためだけにえんえんと培った技量(そんなものがあればだが)を、ディスプレーと回線の向こう側にいる「だれか」のために使ってみよう。そのだれかの些細なヒマつぶしのために。もちろん俺が読んだ本や、聞いた音楽に対して「金以上のもの」を支払うためにも。

 これは俺の信仰のようなものだけれど、表現なんてものは、ただ個人の社会化されない内奥の叫びが行き場を失って噴出したものだ。だれにも伝えられないものを「ここにはいないだれか」に届けるために発せられた絶叫だ。そうであってほしいと思う。そうでなければ、そもそも表現される必要などどこにもないのだから。だから俺は、ここの日記には自分の日常生活のことをほとんど書かない。それは俺が日常生活をともに過ごす人たちと共有されればいいことであって、ここに書くことに意味はないからだ。

 かつての俺は充分に非モテといえる条件を充たしていたが、おそらくはそれ以上に病的な状態にあったと思う。いまだからネタにもできるが、たぶん25歳くらいの俺が病院に駆け込んでいたら、かならずなにがしかの病名がつき、薬を処方されたと思う。状況的には非モテだが、実際はメンヘラだったというわけだ。ただ俺は「自分の目が、目の前にあるものを正しく認識できている限り、俺は絶対に病気ではない」と信じていた。実際に重度の統合失調症のような状態にはならなかったわけで、そのときの世界観がどうなっているのか俺には想像のしようもないのだが、少なくとも、俺がカップ麺であると主張したものは、ほかの人の目にも同様にカップ麺であるようだった。いつ「そのとき」がやってくるのかはわからないが、そのあたりの齟齬が発生した段階で初めて病院に行こうと思っていた。しかし実のところ、俺は「そのとき」が訪れるのを待っていたような気がする。もし目の前の人間がブリキとゼンマイでできた精巧な機械に見えるのならば、電車が大きな犬であり、ランドマークタワーが巨大なレゴブロックを積み上げた玩具に見えるのならば。そうすれば俺は生きていけるのではないか。

 俺は人間が怖かった。男であろうと女であろうと、ひとしく恐ろしかった。人間は、みな俺を攻撃する。人間は、みな俺を傷つける。俺は存在を許されないほどに汚く、存在を維持できないくらいに脆弱で、たとえばマクドナルドでスマイルを0円で売ってくれるアルバイトの女の子はその笑顔で俺を傷つける。通行人は俺とすれ違うことで俺を蹂躙する。人間というものは、すべて俺の存在の汚さを暴露する。おまえは汚い。消えろ。すべての人間は、まちがった存在である俺に、必ず、必ずだ、両親を含めすべての人間が、絶対に俺を消そうとする。そして俺は俺を消そうとする他人の意思に抗えない。なぜなら、俺自身が、俺は消えたほうがいい人間だと信じているからだ。

 俺にとって二次元を選択するというのはそういうことだった。恋愛など冗談ではなかった。すべての人間との関係は、発生しないほうがいいのだ。

 好きになるキャラにしても同様だった。基本的に人間のキャラクターはだめだった。マルチは人間じゃないから信じることができた。それでも電源が入っているよりいないほうがよかった。身動きできなくなり、単なる人型の物体に戻ったとき、俺は初めてマルチを好きになることができる。真琴が好きなのは消えてしまうからだ。消えてしまったものを好きになっても、俺は相手を汚さずに済む。この薄汚い俺という物体の「好き」という汚物にも似た感情が、相手を汚さずに済むのだ。だから、好きになったキャラクターは必ず死ななければならなかった。

 現実の女に価値がないというのならば、すべての可能性を否定せよ。女という存在がある。それは人間である。終わりだ。それ以上はなにもない。好きになる価値もない。憎む価値もない。そこにリソースを割くのは、かならず負けるとわかっているパチンコに投資するのと同じことだ。女に価値がないのならば肉体にも価値はない。したがってセックスにも価値はない。童貞ではないことにも価値はない。処女であることも無価値であれば、非処女でもあることも無価値だ。肉便器というのならば、そこにはまだ便器としての価値がある。女の存在は、いや人間の存在は石ころのように無価値であり、ときに夏の蚊のように有害ですらあり、排除する必要がある。それ以外に俺の生きていく方法はない。人間などすべて消滅すべきだ。それは俺自身が消滅すべきであるように。

 ちなみにこのテキストには、ひとつの大きな矛盾がある。そしてその矛盾に気づいたとき、俺は、自分がただの人間でしかないことを知った。

 俺は、ただの馬鹿だった。人を攻撃する資格などまるでない、人間以前の本当の馬鹿だった。そのことに気づくのに、29年かかった。どん底の馬鹿状態から歩き始めてずいぶん長い時間が経った。俺はおそらく死ぬまで馬鹿だろうが、とりあえず、死ぬまでは、死なない。38年という時間をかけて俺が学べたことといえば、せいぜいこれくらいだ。

 彼女らは、まず総じて物理的な距離を縮める。胸元の大きくあいた服で、この寒い季節に膝上何センチかの短いスカートで。もちろん漂う香水の香りも制服の一部だ。

 彼女らは俺の個人情報に興味を持つ。これは「あなたに関心がある」という意味だ。そして俺をすごいもの、強いもののように扱う。そしてそうしたものに魅力を感じているのだ、ということを極めて隠微なかたちで示す。こうしたものは、媚びの様式化と呼ぶことができる。あなたのものになりたいのです、私は商品です。それが彼女らの主張だ。

 もちろん、これは彼女らの仕事だ。そのための技術だ。しかし、同時に仕事だと男に思ってもらっても困る。出来レースであろうとも、ほんの一瞬でも男を騙せなければならない。そうした矛盾を隠すためにかの彼女たちが駆使する技術を俺は素直に賞賛する。

 彼女たちの技術は、男の「こうしたい」という欲望に最適化されている。また「こうありたい」という理想に近いものとして男をまつり立てることに最適化している。

 それがたまらなく「気持ち悪い」。俺は二次好きでロリコンで被虐妄想のある変態であり、彼女たちにそうした欲望を持てるはずもない。このような人間が彼女たちを見ると、男の欲望の形式をまとった怪物のように見える。俺は女を「顔と胸と尻」、もっと露骨に言うならば、女という生物を「性器」として把握する世界観からの敗残者だ。俺自身はそれを敗北とは思っていないにせよ、多数派でなければ敗北者として見なされる。

 そうだ。彼女たちが職業的に衣服のようにまとったあの媚態は、俺に「おまえも男なのだ」と言うことを強要している。とうの昔に克服したはずの「まともな男ではない」というコンプレックスを刺激する。

 最後に、念のため書いておく。俺がこの文章で糾弾しているものは、もちろん水商売の女性たちではない。しいていえば、男性の欲望の形式というものには、深刻な嫌悪を感じるが、それですらも「俺はこのようであるが、彼らはそのようではない」という程度のものだ。

 俺は重度の中二病患者なので、常に見えない敵と戦っているようだ。あなたには見えるだろうか。人間を不自由にするものが。人間を見えない鎖で縛り、その人の見る世界を矮小化させるものが。

 見えないのならば、それはおそらく幸いなことだ。あなたの敵は目に見えるものだ。そしてあなたは大人なのだろう。しかし俺には見える。見えてもクソの得にもならない敵が。

 ホームセンターにあるのは「生活」そのものであって、そして俺は生まれてこのかた、ちゃんとした「生活」というものを持ったことがないので、マーブル加工のフライパンは「家で料理するちゃんとした生活」の象徴だし、洗濯物を入れておく大きな籐製のかごもまた「ちゃんとした生活」の象徴なのです。それらは俺にとってすべて「憧れ」の範疇に入るものです。

 ちゃんとした生活には、お父さんがいてお母さんがいて僕と妹がいたりするものですが、俺はお父さんは死んでいなくなってしまうものだと思っているし、お母さんは知らない男の人を連れてきたりするものなので、お父さんとお母さんと僕がいるような生活は、すべて欺瞞のうえでしか成立しない、ということを「知っています」。「そうはいっても家族なんだし」というような、根拠のない信頼にもとづいた「家族」というものが本当に存在することを信じられないのです。人間は利己的なので、すべての共同生活は、必ず破綻するように「できている」ことを俺は知っています。現実がどうであろうと、俺には家族という概念を信じることができない。

 5箱298円のティッシュペーパーも、レジの横に置かれた色とりどりの透明な色つきプラスチックのボディを持つ100円ライターも、すべては生活に直結していればいるほど、俺にとっては夢の産物なのでした。

 外に出ると、11月の午後3時半の日差しはすでに夕暮れのようで、居並ぶ車のフロントガラスがぎらぎらと太陽の深い赤を反射して白く光っていました。風が強かったです。人がたくさんいて、笑ったり、歩いたり、手をつないだり、大量の荷物をカートに乗せて移動していました。

 こんな一瞬には、すべてのものが現実感を失ったようで、ものすごく精巧な3D画像を見ているようで、この、世界から湿度と温度が失われたような感覚は、昔なじみのものでした。俺はこの感じが決して嫌いではありません。

 のっけから気分の悪い話をしますと、俺は依存心の強い女の子が大好きです。そういう女の子を思いきり依存させて、なんでもしてあげて、自分ひとりじゃなんにもできないようにして、俺なしじゃ生きられないようにして、そんな関係の果てにあるのは、きっと女の子の憎悪であり、俺の忌避感であり、あるいはわずかばかりの「好き」であり、結局はとうてい人間関係とは呼べないようななにものかであり、最終的に行き着くところは死です。

「あんたなんかいなくなればいいんだ」

 という、憎悪まみれの罵倒を浴びながら、それでも俺なしでは生きていけない、そこまでどん詰まりの状況まで行かなければなにも信用できないという、これは、言葉を飾って言うなら、信頼しあうような健全な人間関係に対する絶望であり、率直にいえば臆病者のバカです。

 成長するということは、その楽園をあとにしてはるかに歩き続けることです。俺の歪みは、成長を繰り返し、だれにも頼らず自分の足で歩くことができるようになった結果、到達したいと願う場所が最初の楽園であることに由来しているようです。

 だから人は、本当は歩かなければいいのです。生まれた場所を一歩も離れず、時間も流れない、自分も他者もないその世界でまどろんで、あるとき眠るように死ねばそれでいい。生きていることの意味も知らず、ただ穏やかに、僕の皮膚と君の皮膚がふれあうやわらかな感触のなかで永遠に眠るように。なにも感じずに。なにも知らずに。なにも考えずに。この現実に生きる俺には否定形でしか表現できないすべてのものが裏返って、単純なひとつの肯定でしか表現できないその場所で。

 そして、俺の「依存させて支配したい」という欲望と、雪さんの存在はちょうど対になっています。俺は自分の欲望を絶対的に薄汚いものとして否定すると同時に、そうしたものを求めずにはいられない。雪さんのようなものを心の底から欲すると同時に、雪さんを殺すことをほぼ確実なこととして予感している。

 こうして雪さんは、きわめて明瞭ななにものかの暗喩です。俺はその「なにもの」かに嘔吐を繰り返し、自分の反吐にまみれながら雪さんを求めて手を伸ばすのです。そして伸ばした手の先にはナイフ。

 俺は、自己責任を標榜しながら今日も自分の人生を引き受けて歩いており、その内部で雪さんに甘え、雪さんを犯し、雪さんをたいせつにし、雪さんを憎み、雪さんに許され、雪さんに愛され、そうしたものの蠕動をおさえつけているわけです。

 俺はひとつの十字架を背負っている。十字架の名は罪悪感といい、その重みは、ときに俺を殺す。

 罪悪感はなにに由来しているかといえば、おそらくは「生きていること」そのものだ。「おまえが存在していることは、本質的にまちがいである」という声は、俺のなかにいつも眠っていて、ふだんは聞こえないふりをすることも可能なのだが、ひとたび弱った精神は、こうした声にいとも簡単にチューニングを合わせてくれる。

 その声に従うことが、俺にとって唯一の安息であると考えたこともあった。しかし、できなかった。肉体は死を恐怖する。その恐怖感は頑強なものだ。

 死ねないとわかったとき、俺を捕らえたのは空虚だった。生きるしかないのか。この脆弱な精神を抱えたまま、何年、何十年となく生きるしかないのか。なんというバカな話だ。俺は肉体の奴隷なのだ。死ぬことを拒絶するこの肉体を生かすために、メシを食い、金を稼ぎ、あたりまえの人間のようなツラをして生きていかなければならない。だれか、この脆弱な精神を殺せ。フィクションを愛し、気温の変化にも鋭敏に反応し、見えないものを虚空に発見し、たどりつけない夢を夢想するこの精神を粉みじんに破壊しろ。自分には自分を殺せない。だれか、俺を精神を、この現実に適応するものに作りかえてくれ。

 狂うことを切実に願ったと思う。凶器への扉はすぐ隣に存在しているように思った。扉を開けば、そこは極彩色の空間で、あらゆる直線はぐねぐねと曲がり、人の顔はちぎれて16等分されて新たな小さい人間となり、俺の呼び声に応えて世界がゼリービーンズのように潰れて、ぐしゃっと割れた世界から緑色の血液の奔流が飛び出す。俺という存在はきちきちと音を立てるカッターナイフで賽の目に切り刻まれ、どの部位の俺も声をあげて笑っている。笑っている。もうなにがおかしいのかもわからない。笑っているのだ。笑っている。

 扉は開かなかった。俺は、死にたがりの精神と、生きたがりの肉体を抱えて、空虚な空間のなかで、どんな表情をも浮かべずに呆然としていたに違いない。

 それ以来、俺はしかたなく生きている。しかし、死ねないのならば、少しでも精神が死にたがらないようにするしかなかった。そのためには弱者であってはならなかった。たとえどんなに困難であろうと、死にたくなるよりはましだ。だれの侵入をも許さない。負けることは禁物だ。負けることは侵入を許すことだ。自分が殺されるならば、人を殺す。なにしろ俺は死ねない。もうあの場所に戻るのだけはいやだ。自分が死ぬくらいなら人を殺す。

 俺を内面から殺そうとする「消えろ」という声と、他人のあらゆる干渉を避けるためには、自分の内部に無数の正しさを積み上げることだけが唯一の方法だった。いつでもだれに対しても、自分はまちがっていないのだと断言できるようになること。論理を暴力として活用し、敵を殺すこと。悪意には倍する悪意を。貸しはつくっても借りはつくらない。

 さしあたって、俺が死なないために選んだのはそのような方策だった。

 この方法論はよく機能しているらしく、俺はこうして今日もテキストを書いている。もちろん他人を殺すことに罪悪感はあるが、それとても「あの場所」で、不断に自分を殺しつづけ、他人に蹂躙され続ける日々よりは、はるかにましだ。

 俺は物事を考えるにあたって「正しさ」というものをまったく考慮に入れない。俺にとって「正しさ」とは、ただ自分が死なないための方便であり、すべては偽善だからだ。もし俺にとって真実と呼べるものがあるのだとしたら、それは「人は自分を殺せない」という一点であり、それゆえに、死ぬまで生き続けるしかない、ということだ。その時間をどう生きるかは、ただその人にのみ任されている。死因に占める自殺の比率がいかに増加しようとも関係ない。人は自分を殺せない。

銀色夏生に「正しさの中にいるあなたたち」ってあったなぁ。