愛されたい中二病

加藤容疑者のことを考えていたはずが橘いずみを思い出してしまった。
僕は中二病真っ盛りの頃に「失格」を聴いて以来橘いずみ*1が好きだったわけなんだよなぁ。ご多分に漏れず「大人嫌い」とか思ってたけど、「大人」なんていう一種類の生き物が居るわけじゃなし。歌は多様な価値観の一部を見せてくれたと思う。

「四の五の理屈を言ってる私を愛したい」この一言の為に連ねた言葉の刺々しさ。深夜にこんなもの聞かせてくれちゃってまぁ。
そして「失格」が自分を愛したいならこれは人に愛されたいという歌。

加藤はどうしてあんな風に育っちゃったんだろうな。
ただちょっと他人を認めて、自分の中に他人を受け入れて、良い所を真似して生きれば楽だったのに。
あいつはどうしようもないクズだけどちょっと哀れな気さえしてくる。他人を拒絶すればする程愛されたいのが丸わかり、でも誰も愛してはやれない。壁を作っているヤツを壁ごと包んでやれる程大きくはないから。
さらには愛するものも彼には無かったかも知れない。

愛と同じくらい孤独なら
愛と同じくらい憂鬱なら
愛と同じくらいずさんなら
愛でしょ
愛と同じくらい無実なら
愛と同じくらい無情なら
愛をとれって そうだよね

この歌、良くわからなかったけど好きだった。今はわかる気がする。
「愛を取る」ことは孤独で、憂鬱で、無実で、無情で・・・これは愛することの報われなさだろう。
「ウサギとベルベット」は好きだったものがみんな無くなってもまだ何かを愛するという歌。

ひとりぼっちにされることより
うちに戻れなくなるのが恐い どうしよう

独りぼっちに、愛されなくなるよりも、愛するものが無くて帰る理由が無いことが怖い。愛を向けるものが無いことは愛されないより孤独なのかも知れない。

好きだ嫌いだ やめちまい 何も感じず生きようとして
別に別に別に別にと返事していると腹が立つ
誰がどこで何のために何をどうしてどうなった

このフレーズが好きだ。くだらない、関係無いと思うことは案外難しい。一体誰が何の為に、何を賭けてるんだって?

右だ左だ後ろだ前だとうるさく怒鳴られて
今度はお前が怒鳴る番だともっとうるさく怒鳴られて
嫌だ嫌だよ もうたくさん私ここからできれば一抜けたい

誰が何をしてたって自分はここで堂々巡り。できればドロップアウトしたいと思っても・・・明日になったらまた笑う。
この歌も凄い。理由なんか無くたって良い。なんだって良いんだ。

このいたたまれない感じがたまらない。バカじゃないかって内容だけど、どこかわかる気もしちゃうんだよな。
自己憐憫ってとっても甘い。

  • 26-Dec.11th,1968


この曲も愛されたいという叫び。

やりたいことさえ選べずに
言われたことをこなしては
逃げるようにひとりになりそっと振り向く
休まずやりとげ褒められて
得意になりはしゃいでも
ドアをしめた後は ただの弱虫

日常に何も期待しない、疲れた姿。それでも笑うからなお寂しくなる自分。

愛がすべてを救うから
どんな女も救うから
黙って胸に飛び込めばいいと抱かれて
誰に謝るでもなくて
誰を怖がるでもなくて
真夜中にふいに目が覚めて震えてる

幸せが信じられない疲れた女。この曲はなんだか悲壮な決意のようだ。

*1:今は榊姓。