勘違いで潰されかけた人生

ちょっと前こんなのがあって。

最初はなにかいいことを言われたのかと思ったけれども、これは呪いの言葉だった。

その言葉とともに、僕は知能指数に関してのレポートを貰った。そこには200に少し届かない数字が書かれていた。

いま思い返すとあのテストの有効性自体もアヤシいものだ。しかしそれが夢や幻覚でない証拠に、そのご大層な知能テスト結果報告書はいまも実家にあるし、ビザの申請にも活躍した。

はじめ、身の回りに起きた変化は些細だった。

焦りは毎日のように重なり、「知能指数が高いというだけでは天才ではないし、勉強せずしてテストで高得点がとれるわけがない」という当然の真理にたどり着く頃にはとっくに置いてかれていた。

大人になる過程で、僕にだって解ってきていた。

人間、誰しも、分というものがある。持って生まれた役割というものがある。

そして測定とか計量とかいうものが、いかに信用ならないかということ。

僕が知能テストを受けてその結果を知らされたのはあの時が最後で、そのあとは学校が定期的に行う知能テストしか受けていなかったし、そもそも知能テストが本当に知性の善し悪しを測るのかどうかも疑わしい。



しかし僕のそれまでの人生、少なくともあの時点から20年間に渡る人生というのは、それを前提、自分が天才であるのだという告知を前提として組み立てられてきたものだ。

幼い子供に、どうしてそれが詭弁であるとか、欺瞞であるとか、錯覚であるとかが想像できただろう。まわりの大人達は常にそう振る舞ってきたのだ。

自分が天才として育てられ、自分を天才と思い込み、苦悩し、葛藤しながら生きてきた一人の凡夫にとって、真の天才とはまばゆいばかりの輝きを放つ宝石のようだった。

僕のような偽物の天才、たとえるならライカに対するコンタックスというか、持たざる者が持つ者に対して抱くもやもやというのは思春期の恋愛のようなもので、言語を絶するような激情である。

だからそれまでの僕は、天才と呼ばれる人を見る度に片っ端から否定するか、無視していた。

天才とは、F1カーでいえばエンジンである。エンジンはレースの要だが、それを受け止めるシャシーと、恐れを知らずにアクセルを踏み込み、絶妙なタイミングでコントロールするドライバーが必要だ。そしてそのドライバー、メカニック、その他もろもろのスタッフを監督するコンダクターが必要で、僕はエンジンにはなれないけれども、自分が生涯を通して感じてきた「天才」なるものへのあこがれと嫉妬の歴史をコンダクターとして活用することはできるのではないかと考えた。

要するに僕は「逆みにくいアヒルの子」だ。白鳥の群れにまじっていたアヒル、というわけである。

それでも白鳥の世界には誰よりも精通したアヒルというのは、そういう人間以外にはいまい。

そういう心の葛藤があって、それから僕は初めて堂々と、ぼくは「君は天才だ」と言えるようになった。

とても屈折した感情だけれども、それがいまは僕の最上級の褒め言葉になった。

そして僕は自分が本当の天才になれなかったかわりに、「天才を研究し、天才に貢献する人」という自分の分、役割、使命を見つけた。

紆余曲折を経て今は自分の生き方をしているようです。
しっかしIQテストにも困ったもんですねぇ。いや、IQテスト自体に問題があるわけではないのだが。
あれは10歳なら10歳の平均に対してどれだけ優れている/劣っているという数値だから、子供のIQが高いというのは単に早熟なだけで将来までそのまま高い水準を維持するとは限らないですよね。神童が大人になったらタダの人、そういうもんです。
しかもIQで測れるのは並べた図形の共通点を類推するとかそういう一部の能力に限られているのだから、IQが高いからといって全ての能力が高いわけでは無い。
そういうの無視して周囲の大人が、それも教育者が先走ったことをするのはとても問題があるはず。教育機関の人間はこの手の知能測定というものをきちんと理解していないといけないが、大丈夫なんだろうか。学校じゃなくて塾だったりとかすると古い勘違いが残ってたりしそうで、そういうのって怖いよなぁ。