魔術と幻想の時代

2006年5月末の記事ですが。

今回の展覧会は、ヤンの作品と、昨年亡くなった彼の奥さんエヴァの作品を、100点ほど集めたものです。商業施設のギャラリーという決して恵まれたスペースを持たないアルティアムの中に、ところ狭しと並べられた不思議な絵画作品は、映像作品から流れる単調な音楽とともに、さながら御伽噺の中の世界に迷い込んだような空間を形作っていました。ゴスロリの格好をした女の子たちも、シュヴァンクマイエルの作品が与えるそうした感覚を楽しんでいたと思います。

あの不思議な世界にゴスロリ少女が集まっていたんですねぇ。

「サンプリング」された個々のモノや音が、もとのコンテキストから「盗まれ」、その起源を軽やかに忘却されることで流通しているのに対し、シュヴァンクマイエルの作品に使われている個々のモノは、「これはもともと鳥の体だ」であったり「ひとの耳だ」であったりという、もともとのコンテキストを強く感じさせます。そういう意味で、シュヴァンクマイエルの「コラージュ」は「引用」とも言うべきものであり、解剖台の上で蝙蝠傘とミシンを引き合わせた、かつてのシュールレアリストたちの方法を思い起こさせます。いや、思い起こさせるというより、シュヴァンクマイエルの作品は、今から80年前に流行したシュールレアリズムの作家たちと殆ど同じ方法を使って、そして実際に制作された作品も、シュールレアリズムに分類される作品と大差がないように思えます。

彼の作品は映画しか知らないんですが、なんとなく雰囲気はわかるような。

僕は、残念ながら、シュヴァンクマイエルの意図は、現代社会において成功しているとは思えません。時代遅れとなってしまった「魔術」という言葉に対して僕たちがリアリティを感じることが出来ないのと同じように、シュヴァンクマイエルの言葉にリアリティを感じることが出来ません。

彼が、「コラージュ」によって「ありとあらゆる蒐集物」を集めようと意図したところで、僕たちはパソコンを使えば、簡単に、より複雑なエピゴーネンを作ることが出来るように思えます。彼が「魔術的な世界」と呼んだものは、僕たちの日常の中で一般化している「非日常」に過ぎず、「現代的の実用本位で功利的な文明」に対立することが出来ないように思えるのです。

確かにネット上のネタ画像見ててもあらゆるグロテスクな組み合わせが容易に可能なように思える。
しかし彼の作品というのはCGに無い「その物の存在感」が異様な雰囲気を醸し出していることはこのレビュアーが指摘した通り。
パソコンという道具がそれを容易にしているとはいえ、この手法には強い存在感を放つ「実体」が不可欠だ。
時代錯誤という程古びたものではなく、コンピューターが敷居を下げ容易にしたからこそ、類似の手法の頻出によって彼の手法は受け入れやすいものとなり、「魔術」は現代に蘇ったのではなかろうか。
ならばコンピューターは現代のウィザードの杖である。現代に生まれた魔術師の子孫達に幸多かれ。