吉浦康裕レビュー・インタビュー

データとして保存された「過去」は、保存の対象として取捨選択された時点で、保存した人の憧憬のイメージを引き受けると同時に、ある種の虚偽性をも引き受けることになっているのではないでしょうか。そうである以上、「データとしての過去」は、限りなく「本当」に近かったものでありながらも、時間と共に次第に「嘘」のようなものになっていき、遂にはどちらか分からなくなる。そんなイメージの集合としてデータ・アーカイヴがあって、それは「かつては本当」だったというアウラを帯びている。その魔力の前に、「現在」に生きる人々は魅了され、規定され、そして現実=現在に絶望してしまう。《ペイル・コクーン》の主人公達がそうであるように。

「青い地球」というイメージもまた、そんなイメージの産物なのでしょう。私には、最後に主人公の目に映る「青い地球」が、まさにイメージとしての過去の映像に見えました。そのために、ラスト・シーンは(「地球は青くなった」との希望のラストだ、という御意見もありましたが)私にはこの上なく悲観的で、それだけにいっそう切ないものに感じられたのです。(yearn)

僕もあれは「過去の幻」だと思ったんだよなぁ。
真実味を失って、きっと「日本は戦争をして負けた」というのと同じぐらい、若者にとってリアリティの無い過去。むしろどうでも良い、忘れたいとさえ思っている負の歴史。
だけどこの作品の主人公は、失われた過程ではなく、それより前に存在して失われたもの、その記憶を少しずつ集めていた。そして思い描いていたのだろう。「青い地球」を、緑の草原を、水を湛えた海を。
そしてそんな「ユートピア=存在しない場所」にかすかな憧れを抱いている主人公の前に、あのパンドラの箱が現れる。
歌。青い記憶。失われたものへの愛おしさが溢れ、語りかけてくる。「それは確かに有った」と。
彼はこの希望を目にした為に、もはや記録上にしか無い青い星に取り憑かれてしまうのだろう。
もし青い地球が取り戻されていたのだとしても、彼が探し求めているのは過去だ。彼は過去の青い地球を見つめ続けている。

虚偽性ということは、押井さんなんかは「極論すれば報道だってメディアを通した時点で虚構」と言ってる。
まして実際に触れることのできない時間的に別の場所、歴史について100%本当のことというのは無い。歴史は生き残ったものが語り、考古学的に検証されるがそれさえ「事実に基づいた推測」であり解釈の余地というものがある。小説の内容を歴史的事実だと思っている連中を笑えない部分もあるのだ。

ところで作中で下に海があるようなこと言ってた気がするんだけど、彼らが居るのは地球の「殻」ではないのかな?
住めなくなった上層から落ちてくる人もいるというし、自分は月面移住に取り残されたか或いは自らの意思で地球に残った人々が居て、その子孫が事実を忘れたままどこか人口構造物の中で暮らしているのだと思っていたのだけど、もしかしたら月の海?それとも気のせいだろうか。もう一回見てみるか?
環境維持装置の影響が下に行くほど強くて上には住めないっていうのもなんでだろ?
実は地球の引力圏外の構造物で遠心力が働く外側が「下」だから上は汚染された地球に近い、とか?
それとも月面地下に装置が有って、もう老朽化して影響力が弱まっている?それともACよろしく地球の地下に穴掘って退避したか?*1
これは「もう一つの発掘記録」*2を見ればわかるのかなぁ。

僕はデッサン等美術的な素養に詳しくはないのですが、詳しい方からすれば、ひょっとしたら、吉浦さんのアニメの人物造型や背景の作りこみは甘い(たしか講演会でも吉浦さんはこの点に触れられていたと思います)のかもしれません。

でも、アニメにおいて決定的に重要なのは、絵画的技法なのではなく、世界観を構築するだけの妄想力と、アニメを虚構として徹底的に作りこむことのできる表現メディアへの反省力なのではないでしょうか。そこに、吉浦さんが評価されている理由があるように思いました。

もともと俳優になりたかったという吉浦さんが演劇に見切りをつけてアニメの方向に進んだのは、大学2年のときだそうです。そして「似たり寄ったりの商業アニメ」という意見に対して「たしかにそうだが、アートアニメだって様式化してるでしょ」と言い、どちらかに与するのではなく両方の良いところを取ればよい、というプラグマティックなスタンスを採る。吉浦さんみたく、アートの可能性と限界に見切りをつけた才能ある方々には、自らの表現領域でのびのびと活躍してらっしゃる方が多いようです。そんな人々を、ドネルモでも積極的に紹介して欲しいな、と思いました。(anonym)

吉浦康裕、恐るべし!
「水のコトバ」初見では最後が余計だと感じたけど、あれも計算されたラストであるように思える。
あの「ちょっとそれは無いんじゃないか」というあからさまな動き無くしては、主人公の危機がはっきりしないんじゃないか、と。
「水のコトバ」を見たけど良くわからない人はこちら参照。
http://www.studio-rikka.com/page/mizu/mizu_scenario.htm
これを見てもわからないなら「あんたも重症ね」ということでw
あの人生経験豊富なバーテンみたいなウェイトレスちょっと萌えw

厳密に言いますと全工程を完全に一人で作っているわけではなく、音に関する部分は別のスタッフにお願いしています。完全個人制作なのは企画、脚本、そしていわゆる映像面ですね。音響効果はプロのスタジオの方にお願いしていますし、音楽は実は「ムーンライダース」の岡田徹さんに、劇中歌の作詞は「千と千尋の神隠し」の主題歌で有名な覚和歌子さんにそれぞれお願いをしています。

ムーンライダースですかい。

個人制作のメリットは、まずイメージの劣化が無いことだと思います。スタッフワークだと、自分の中にあるイメージを別のスタッフに伝えた際に、多少なりともイメージがズレたりします(これは良くも悪くも作用すると思います)が、個人制作にはそれがありません。100%自分の想いが画面上に表れます。また修正も容易で、試行錯誤を繰り返しつつ作る作業も比較的スムーズです。それに完成した作品は、必然的に個人の想いが色濃く残る内容になります。これを上手く利用すれば、見ている人に作家としての想いを強く訴えることが出来るのでは、と(幾つかのインディーズアニメ作品を観るにつけ)思ったりします。

所謂「アニメ作家」の作る作品というのは何かとても際立ったものを持っていて魅力的です。それというのも納得がいくまで試行錯誤して自分のイメージに沿うまで追求してるからなんですね。
ポーランド映画監督なんかも何十回も同じシーンを取り直してるそうで、押井さんは1回で済ませるから大変喜ばれたそうですがw
「東側」には「作家」が多い印象。商業主義が流れ込んで伝統が失われているという話もあるけど。

デメリットは一にも二にも手間だと思います。アニメは総じて手間がかかりますよね。そしてそれを補うのは本来ならば「人手」ですから、そういう意味では間逆なんですよ。故に、個人制作である程度のボリュームの作品を作ろうと思ったら、なんらかの「工夫」を施さないと現実的な時間では完成しないと自分は考えています。それは作画の動きを制限して見せる手法だったり、3Dの特性を上手く利用したり、様々だと思いますが。

良く考えて作ってる。そうすると結果的に意外な絵とか、ツールを使いこなした表現というものが出てくる面もあるわけだな。
個人製作でもそうだけど、商業アニメだって現状では納期に追われて人手不足ってのが当たり前と言われている。限られた「工数」でクオリティを上げる為にはやっぱり「工夫」が必要だ。

今まで個人制作を続けた意図ですが、大まかに二点あります。一つは、単純に学生時代の作業の延長(当時は周囲に協力者がいなかった)であること。もう一つは個人で出来るところまでやってみて、その上で「グループならこういうことができるのに」と具体的な欲求が出てきてからグループワークに移りたかったという点があります。全工程を把握することは今後も役に立つでしょうし、どの部分を任せればより優れた作品を作れるかを把握できると思ったのです。

素晴らしいなぁ。状況的に選択肢がそれしかなかったにも関わらず、獲得目標がはっきりしている。
やるからには何かをそこから見つけてやろうという意思。求道者ですな。

アニメの場合、キャラクターに匿名性が出てくるんじゃないでしょうか。実写の役者がある台詞を言ったとして、それを生身の人間が言うと、大げさに感じたり、情感が非現実的だったりする。それは生身の役者に視聴者が自分の実体験を強烈に反映させてしまうからではないでしょうか。でもアニメの場合、その台詞を言うキャラクターは絶対に「生身の人間」ではありませんから、生身の…現実の人間が発する言葉と認識する必要が無いんです。もちろんだからと言って、アニメのキャラと生身の人間が100%違うわけではありませんが、その虚構性のバランスが上手く取れているのだと思います。外見的デザインがそうであるように、精神面も言わば生身の人間のデフォルメなんじゃないでしょうか。

本当に良くわかってらっしゃるなぁ。アニメはどんなに写実的に作ろうとしてもやっぱりアニメなんだよね。実写と完全に同じものができるまで作りこんだCGなんて意味が無いし。それなら実写で良いもの。
1から作られるアニメには、最初から存在するものを使う実写と比れば必ず欠落したものがある。でも作っていないものはそこに存在しない、余計なものが存在しない。「デフォルメ」による純化

《ド》:「ペイル・コクーン」における「あなたを忘れない」という台詞、また地球を守るといったメッセージ性に、「アニメだからできる」という意図を感じたのですが、これまでの作品でこのことを意図されたものはあったのでしょうか。

《吉》:これは作っている最中は案外気にしなかったりします。ちなみにこの台詞ですが、これはまず最初に歌詞があって、そこからそのキーワードを劇中に組み込む形で使用しています。

歌詞を生かすように作られていたんですね。どうりで取ってつけたような「見せ場」にはならないわけだ。無駄なものなど無い。

残された記録と、それ自体が確実な過去の記録であるという点と、その記録の残存の仕方自体に虚構性が入り込む、ということがテーマなのですが、こういったご意見をいただけると嬉しいですね。

先のレビューに対する回答。

復元前のPVを「リングの呪いのビデオ」的に演出してみた(伝わったかは疑問)なのですが、これもそれを象徴的に表そうとした結果だったりします。

僕は100%伝わったwwwww
もうシリアスなのに茶目っ気出しまくり。面白いよ吉浦さんw

この企画は、最初に「記録」というモチーフありき、ではないんですよ。もともと最初に「中篇アニメを作る」という目標からスタートしたんです。まず企画のモチーフの一つとして、以前から好きだった「純SFモノ」をやろうと考えました(古典的なSF作家の小説に出てくるような世界観や物語って、日本のアニメでは意外と描かれていない気がしていたので)。そこで次に考えたのが、単に「純SF」で物語を作るよりも、そこに意外なものを組み合わせたほうが面白いのではないか、ということです。そこでもう一つの興味の対象である「アニメにおけるミュージカル」を思いつきました(ディズニー作品のミュージカルシーン等が好きだったので)。

さて、そこで「退廃的な未来世界」と、そこに場違いな「ミュージカル」が存在するにはどういうシチュエーションが必然性をもつか、を考えたんですよ。その結果思いついたのが、過去の記録として登場させることです。そこから逆算して、「記録」というモチーフ、「記録発掘局」という施設、職業、ストーリーのスジが演繹的に浮かび上がったというわけです。

中篇アニメという目的があって、SFという選択が有り、視聴者に意外性をもたらす必然性からプロットが立てられた。
これ、商業アニメの企画成立過程そのものだよな。

劇中に出てくる記録は全て「ありのままの記録」ですが、それを見る人間側(これはそのまま観客でもあります)にある種のフィルターがかかっているがゆえに、別の結論、解釈を導き出しているのがこの作品のテーマ…というか仕組みです。ですのでご質問の「ポスト・モダン的価値観」には非常に共感します。特典である「もう一つの発掘記録」の中にも反映されていますが、現在の価値観で過去の記録的事実を捉えることは出来ても、当時の価値観や善悪の判断基準とは必ずしも一致しないだろう、ということは常々考えています。もちろん、感情的には理解できないことのほうが多いのも事実ですが(例えば、現在の家族構成が最も健全で、子供は実の親に育てられるべきだ、という考え方から離れることは、私にはまず無理です)。

つくづく頭の良い方ですな。
例えばスパルタでは五体満足で無い子供が生まれると捨てていたという。軍事国家だし、今のような倫理観では無いから。生産は奴隷によって支えられていた。今の価値観では有り得ない国だ。
子供の口減らしや姥捨てなどの間引きだって珍しくないんだよね。
日本の侵略戦争云々と言ってる連中などもろに現在の価値観で過去を語っている。そこにはどういう意味があるんだろう?という反省があればそれも価値があるのかも知れないが、危険なことと認識するのは大切なはず。

「アートアニメ」という名称が、非常に曖昧で定義すること自体が危険だという考え方もあり、私もそれは良く分かります。ですから(乱暴な意見で申し訳ありませんが)私が言うアートアニメは「アート(芸術)」のアニメではなく、「アートアニメ」という全く別のカテゴリーだと考えて下さい。つまり商業性のあるアニメーションが、ある程度共通の記号や演出の元に成り立っていると考えて、それ以外のものがアートアニメであると私は認識しています。例えば、いくら脚本の構造を抽出しようが美術の技法がどうだろうが、「ハウルの動く城」は商業アニメだと考えています(作家性を前面に出している作品ではありますが)。これはひとえに「絵柄」と「演出技法」で判断した結果です。

これは面白い捉え方。芸術性云々ではなく、技法から捉える分類か。

ではそのグレーゾーンに位置する作品は?と聞かれた場合、ちょっと具体例を二つ挙げてみます。押井守監督の「天使のたまご」は、「絵柄が商業&構成がアート」だと感じます。逆に「アニマトリックス」の「キッズストーリー」は、「絵柄がアート&構成が商業」と感じました。

お見事。
天使のたまご」は鈴木Pが口出さない程作家性を出して作ってたそうだからなぁ。結果売れなくて乾されたけどw

商業の良いところは、作品の絶対数が多いゆえに、絵柄や演出技法そして技術が洗練されている点だと思います。また観客の大多数がそれらに見慣れている点も重要だと考えます(見慣れていれば受け入れられやすい)。

確かに「アニメの観客」というのはアニメに慣れている。出なければ今のように奇態な作品が溢れていないw
商業アニメって慣れてない人にはちょっとキツイよね、正直。

一方、アートですが、ちょっと別の言い方でまとめさせて頂きます。自分は商業作品の方法論を下敷きに制作し、そのあらゆる箇所(企画、脚本、作画や質感等)において「商業的手法」ではあまり実践されていないエッセンスを取り入れる、ということを積極的に行っています。…こう言うと、「アートと商業の融合」という言い方はちょっと間違ってますね…。上映会の対談での最後に「結局自分がやっていることは商業系アニメだ」と言いましたが、やはりその結論に落ち着くようです。

ただ、企画的に商業作品では(あまり)やられていないことをしたい、というのが本音でしょうか。戦闘シーンの無いSF作品etc...。

「戦闘シーンの無いSF」かぁ。2001年みたいなノリかな。素晴らしい。見たい。SFを愛してらっしゃいますねぇ。

今現在の自分の作品はまだまだ勉強すべきところがありますし、「これは改善すべきだろう」と自分が考えていることを同様に他者に指摘された場合、「あ、やはり改善すべきだ」と判断することが出来ます。そういう意味ではあらゆる他者の言葉は貴重ですよね。

自分は割と「そういう意見を取り入れたい」という願望が強くて(本当です!)、例えば今現在の企画は、脚本段階からディスカッションをしまくっています。あと、どうも自分は悔しい思いをしてもすぐに忘れるタチのようです(自分ではよく分からないのですが、人が言うにはどうもそうらしいです)。

才覚溢れるのに謙虚だなぁ。他者を介在させることで客観性を持っている。

今までは主に「個人制作」を通してきましたが、これは「自分はそういう環境にいた」&「一度、個人制作に納得できるまでチャレンジしたい」という二つの動機が半々で混在していたからです。今はこの制作形体に未練はありませんし、当たり前のことですが一人で出来ることはたかがしれているなあとも実感しました。ただ個人制作を通して、全作業工程を把握できたこと、及びグループワークを具体的かつ切実に望むようになったことは、非常に価値あることだと考えています。

というわけで今後は、グループワークの確立と強化。そして今までは「個人制作」の制約の元に実現できなかった企画を実現すること。これが当面の進路です。

押井さんは個人製作が増えている風潮に対して「一人で全部やってしまえるからそれしかしなくなる」という危惧を口にしていましたが、こういう人が自ら学ぶ為にまず個人製作を入り口として、グループワークに発展していくという流れを知ったら意見を変えるかも知れないですね。

*1:初代アーマード・コアの設定。戦争で地表が荒廃した為生活空間を地下に求めた。

*2:DVDに収録。