もうちょっと語る

明らかに人生狂わすカルトより自己啓発紛いの方が半万倍マシだとは思う。
それに死後を信じなきゃ成立しない古い信仰では救えない人もいるだろう。まぁそういう人はそもそも宗教に救い求めない方が良いかもしれないけど。ピーター・マシーセンが禅に走ったのもそこだろうか。
グノーシス派ってヤツだと罪なんてものは無くて、ただひたすら内面を見つめろということになるらしい。

某巨大新興宗教の人から、衆生を救おうとする大乗仏教の方が個人の苦悩を追及する小乗仏教より優れていると言われても、やっぱり小乗仏教の方がいいなぁと思うまず個人な自分としては、キリスト教の国に生まれても教会の伝統的な教えよりグノーシス的なものに興味を持ってしまうタイプんじゃないかとなんとなく思ったりもする。
それにしてもこれ。

KEYとグノーシスとは・・・
内向性ですかねぇ。孤独って何?とか考える人にはグノーシスなんでしょうか。
疑え、疑え、疑え、自分で考えろ。けれども我々一人一人がそうするならば、互いの良心を疑わないということでもある。全ての人が一人になることで一つになるという逆説。
あと失うことについてももうちょっと。
昔某キリスト教系の大病院で地下の売店に、インドの神秘主義者(オカルティスト・・・カバラかな?)の本を置いてあったんで立ち読みしたけど、仏教の無一物とか引用してたのと「千本の薔薇」って話が印象的だった。
あなたが持っている1本の薔薇はかけがえの無い1本だろう。しかし1本の薔薇を失うとしても他に999本の「かけがえの無い1本の薔薇」がある。そういう話。
全てがかけがえの無いものなのだから安心して「かけがえの無いもの」を失くして良い、また違った形の「かけがえの無いもの」が見つかるから、というような。
無一物にしても何かに執着するなということであるし、如何なるものからも、愛からさえも自由であれ、ということが繰り返されていたと思う。
この世で何かが失われていくということは理であるから、あるものに執着して自然の流れに逆らえば無理が出るという当たり前のこと。それに加えて失われる一方で生まれてくるものもあり、常に様々なものが手元にあるのだということ。
つまりこれも「前を見ろ」だ。みな同じだ。必要なだけ振り返ったら後は前を見ろ。言葉が違っても中身は変わらない。