尾崎豊

16歳の尾崎のビデオを見せられ、「暗い歌だから、おまえが担当しろ」と言われたのが尾崎との出会いだったという。

そのころの尾崎はパンクロックの「アナーキー」が好きだったらしい。意外なような気もするし、それなりに頷けもする。ぼくも一度だけ「アナーキー」のナマを聞いたが、そのときのライブハウスに来ていた連中は、どこか尾崎に共通するものがあったからだ。当時、尾崎はエーリッヒ・フロムを読んでいた。

「もう学校にも家にも帰りたくない」「夜の校舎、窓ガラス壊してまわった」の『卒業』は、社会現象とさえいわれ、“反逆する十代の救世主”ともてはやされた。

尾崎自身は苦悩しつづけた。20歳になったときのコンサートでは、最後の曲で「俺の歌なんだから、誰も歌うんじゃない!」と発言し、その後のコンサートを停止してしまったりした。いつも苦悩しつづけていたらしい。そうした尾崎のファン無視の態度に、さすがに取り巻きやファンも「こいつはどこかおかしいんじゃないか」と思いはじめた。
 尾崎はコンサートが終わると吐いていた。ダメな自分を吐いたのである。

著者は綴る、「尾崎の歌は、初めから人生を感じさせた。人の命のうずきみたいなものとでも言おうか。痛みがあった。何か傷口のようにひくひくと動いていた。そういう歌を歌うアーティストは少ない」と。

はたして著者が見た尾崎が尾崎の本質だったかどうかは、わからない。そんなことはどうでもいいことだ。そんなことは尾崎自身もわかっていなかったにちがいない。

最後に大槻ケンジの話へ繋がるのが面白いな。この繋がりはホワイトDTぱぅわぁーか?
尾崎豊・覚え書き」は持ってる。橘いずみ聴いてからこの人達に興味持って買ったんだよな。同じ須藤プロデューサーで、「女尾崎」なんて新聞の片隅に書かれたりして。
過去の社会現象でしかなかった尾崎豊の実態が知りたくて、本を見つけて読んだらCDが欲しくなった。で、しばらく聴きつづける。

無理だろう。つか反逆する以下略だぞ。教育者に「か弱き大人の代弁者なのか」って聞くのが「卒業」だぞ。一体何を聴いているのか。
それに「裸の自分自身」なんか剥き出しにされたら教育どころじゃ無いだろ。社会のルール自体に疑問を突きつけてくるんだぞw
「俺たちは何の為に生きてるんだ!」とかやられたら統率できるのかよw学校って何だ?wさせるなら大人しく羊の皮被って学問だろw

香山リカ『ぷちナショナリズム症候群』(02年)が話題となったことはまだ記憶に新しいが、論壇ではまったく取り沙汰されなかった部分に、論壇以外の場所でだけちょっとした波紋を呼んだ記述があった。最近の若い奴は尾崎豊が何いってるのかわからないらしい、とそこには書かれていた。

〈大学でこの『卒業』や『15の夜』といった尾崎の代表曲を一八、一九歳の学生に聴かせて感想をきいたところ、多くの学生が「何を怒っているのかわからない」「ひとりよがりの詩で不愉快だ」などと否定的なことを述べた。(中略)歌詞の内容に共感できると答えた学生は約一〇〇人中わずか二人だけだった〉

はい、どう考えても今時には教育効果なんか無いです。
http://d.hatena.ne.jp/ykurihara/20040329#1080487280
http://d.hatena.ne.jp/ykurihara/20040403#1080997595
面白い世代かもしらんね。
それからこれ。


ちょwwwGTAwwwあんまり笑わすなw効果音がいい味出しまくりw

いや好きですよ尾崎

「卒業した」って言っちゃう人も多いようだけど、そういうもんじゃないだろうって言ったのは当の須藤さんだったかな?
初期の曲は好みじゃないのが多いけど、3枚目ぐらいから割と好きかな。「シェリー」「彼」「闇の告白」とか、彼の臆面無く投げかけてくるような孤独さが好きなんだな。
あと不良的な見方をされがちなイメージがある気がするけど、そうでもないはず。ドラッグ関係の歌はちらほらあるけども。

この雑誌の編集者のHさんは、じつは元ヤンキーなんだけど、彼は、「ヤンキーは盗んだバイクなんていわねえんだよ。そこらへんにあるバイクは全部俺のバイクだから」っていうんだよね(笑)。だから、盗んだバイクで走り出して「自由になれた気がした」りするのは、逆に優等生的だと。
http://d.hatena.ne.jp/ykurihara/20041229

こんなわけだし。
まぁジャンキーとヤンキーはイコールじゃないし、快楽の為にやるのと何かから逃れる為の依存的なものじゃまた違う雰囲気があって。酒飲み≠アルコール依存みたいな。
「酔いどれ」なんて歌もあるけど、毎日同じことを繰り返す日常ってものが歯がゆくて、そこから逃れようとするのと同じくらい、そういう日常を送っているごく普通の人間に対しての、なんというかなぁ・・・憐れみとは違う、むしろ憧憬に近いものがあるようにさえ思える。自分がそうなれないからなのかな。
一方に人間は弱い、強くなろうっていう想いがあるなら、もう一方で弱い自分を捨ててない、っていうのか。
彼の歌の多くが「クサイ物語」なのはそういう風に生きたいという願いなのかとも思う。

今は聴かない

まぁでも、聴かなくなったわけで。それで何を聴いてるかといえばシオンや篠原美也子。この人達も反抗心があるというか、どことなく孤高のイメージを持ってしまう相手かな。
違うのはしぶとさが感じられるところだろうか。生まれたからには生きてやろうというような、やれる限りやってやるという気迫みたいなものが。
尾崎豊は自分が生きていくこと自体に疑問を感じていたのかもしれない。自分の価値が確かでなく、だから他者に優しい眼差しを向けたのかもしれない。
だからか、社会に疑問を投げかけるようでありながら、その社会の歯車として必要とされる人々を否定しない。自分をテロリストになぞらえる歌ならあっても。
尾崎豊の原罪意識」と言ったのはやはり須藤さんだったろうか。
生きることは傷つけることだ。生きていれば愛する為にさえ誰かを傷つけてしまう。彼の歌はそんな罪の意識に彩られているわけだ。
それはキリスト教的な原罪意識のみならず仏教的な感覚とも言えるかな?
自分に特別な価値など無い、だから誰かを傷つけるに値しない。全ての存在は等しく、だから全て価値が有り、全て価値が無い。そしてあらゆるものの価値が等しい以上は全てを慈しむべきなのだ。
尾崎豊シェリーで歌った。「俺は歌う 愛すべきもの全てに」と。
彼は仏教、特に禅には興味を持たなかったのだろうか。抗うことを選んでしまった、仏教的調和とは遠い存在だったのかな。自他を傷つけてでも問いたいものは何だったのかな?ほんと本人が生きてればなぁ。
でもやっぱホワイト・・・いやなんでもないです。