欠落への自己投影という消費のカタチ

なんて言葉が浮かんだ。

萌えポインツが人によってさまざまであるように、泣くポイントもさまざまだとは思うんだけど、俺の場合は、ほぼ「欠落」と「喪失」に限られる。そしてその副産物としての「祝福」か。

対人恐怖がひどくて、人間である以上は「愛し、愛される可能性のある存在」というよりは、なによりも「敵」としてしか認識できなかった俺にとって、恋人どうしの幸福な物語はなんら実感を伴わなかった。そんなもん知らないから。大好きだよって言って、大好きだよって言われる。思いが通じて幸福な気分になる。まあそりゃそうだろうね。しかしまあ、わからん。そんな感じ。そんな人間でも「人が死んで悲しい」というのはわかる。「もうその日々は二度と戻らないのだ」ということならば、生前のあらゆる瞬間が愛しくなる。そういう回路を通じてしか愛情というものを認識できなかった。そして認識した瞬間にはその人はいなかったりするのね。まあ、こっちが「喪失」。

 もうひとつのパターンは、まあ死にゲーのバリエーションなんだけど、麻枝シナリオ特有のやつ。「それすらも得られずに死んでいく」っていう例の。真琴のマフラーは風に飛ばされるしいちばんのごちそうは(だれでもあたりまえに食っている)肉まんだし、観鈴ちんのゴールは「だれもがあたりまえに持っていて、それを幸福とすら認識しない」ような場所だったりする。こっちが「欠落」。

 なんにしても「泣く」ことの根本要因になってるのは「俺はそれを持っていない」という諦観。まあ、ほんとはがんばれば手に入れられるものなのかもしれないんだけど、なんにせよ根本にあるのは諦観だったりするから。「あー、俺にはないんだ」と思ってしまうと、努力の可能性とか想像できない。ましてや俺みたいに子供時代のあれやこれやが絡んでくると、なにをどうあがいても「そのとき子供だった俺が欲しかったもの」とかはいまさら手に入れようがないってことはわかっちゃうから。

欠落。自分と同じように何かが足りない人間をフィクションの中に見つける。周りに居る「普通の人」はみんながそれを持っていて、誰も理解なんかしてくれない自分の姿が、フィクションの中に再現する。ああ、こいつは俺だ・・・俺なんだ。

 俺は、まるで自分に話しかけるように、観鈴ちんや真琴や、最近だと大河なんかもそうだけど、そういう存在に「あなたの存在を世界が祝福している」と言いたいのだと思う。あなたの世界は幸福に満ちている。あなたの歩むどの道にも終わらない幸福があり、あなたはいつも楽しそうに笑っている。あなたの笑顔を守るものになろう。俺が得られなかったものを、せめて、私のようであるあなたに。

森進一の「見上げれば光る星」って歌を思い出した。こんな歌だ。

妹や弟が 母にじゃれつき甘える
僕はポケットに手を突っ込み それを見て笑ってた
欲しかったものがあり 憧れたものがあり
手にしたものとなくしたものを数えながら生きてる

この歌の主人公は最初から何かが得られなかったわけでは無い。ただ、譲っただけだ。
けれども、それでさえも物悲しく、人生は諦めたものの上に築き上げられていると諭すように響いてくる。
それは自分の手にすることができないものだと諦めた幸福。それを自分の手にした別の幸福の為に譲り与える。そういうことだが、しかし歌と違うのは、手にした別の幸福はフィクションであり、また鏡に映った自分の姿であり、だから愛しいということ。それゆえに愛も哀しみも自分にだけ向かって強く突き刺さる。
手にしたものを虚像と知りながら失くしたものと共に数えるのか。それで数は合うのか。人間は滑稽だと思うがそれを笑う気にはならない。