水伝とか疑似科学とか覚書みたいの

未科学は「バールのようなもの」に似ている。それがバールそのものであったとしても、確証が得られない限りバールとは呼ばない。バールであってもなくてもそれは「バールのようなもの」だ。
疑似科学はどうだろう。科学では有り得ないものが科学のようにふるまうと疑似科学と呼ばれる。バールではないことが確かなのにバールに見えないことも無いバールもどき。「バールに見えるもの」ってとこか。
水伝は「ポエムのようなもの」だと江本氏が語ったそうだが、本人がポエムだと言い張ったからってそれが詩的だというものではない。
詩とはなんだろう。かの谷川俊太郎はそんなものどこにも無いと言っていなかったか。詩なんてものは心の外には存在しない。谷川氏はその言葉が詩として綴られたものかどうかに関係無く、新聞の折込チラシだろうがなんだろうが自身の心が詩的と感じたものを切り取って「日本語のカタログ」という「詩集」を作ったそうだが。
誰かが詩を感じたらその心の内側でだけそれは詩なのだ。水伝は詩なのだろうか。
詩的だと感じる人が詩集に加えることは可能かも知れない。でも日本語のカタログに引用された折込チラシが本来広告であるように、水伝は詩的であったとしても詩として世に出たものではない。


疑似科学は「おまじない」である。おまじないは気持ちの問題を別とすれば効果が無い。疑似科学が市民権を得ればそんな効果が無いものを肯定する世界に退行する。
科学的に間違った主張を広める人は、善意でやっている人が多い。間違った主張を広めても、悪気が無いんだから大目に見て欲しいという考えもあるだろう。悪気が無ければ許されるとか善意の行いは正しい結果になるという考えは、何らかの事柄について正しい認識に従うことが社会の進歩とすれば、その逆となり後退を招く。間違いが大手を振って歩くようになる。
善意であることと結果の良し悪しに関わりは無い。心が結果を左右するならそれは呪術だ。
疑似科学なんて信じても百害有って一利なし、社会が後退して皆が損をすることになると思うが、その中で利益を得る方法も無くは無い。信じ易い人を煽動して自分が利益を得る立場になることだ。911陰謀論の英雄ロドリゲスとか、水伝で商売繁盛してる江本氏とか、波動ビジネスといえばこの人の船井氏とか。


てなわけで色々記録。

世間一般、子供やペットの名附けには呪術を用いるのが当たり前である。人や生き物の名前というのは、人と人の間でしか名の持つ意味が働かないのだから、これは完全に心的現実の領域の問題である。であるから、名附けに纏わる呪術は一定範囲でちゃんと効くのである。

命名理由も「灰褐色の上毛が縞状に割れて真っ白な下毛の筋が覗く様が月夜の叢雲を思わせるから」という風雅な口上に変わってしまったが、元々は「四本足なら猫でも喰う中国人にも喰われず恙なく長生きせよ」という魔除けの呪術である(笑)。大事な子供にポンション(うんこ)とか名附けるようなものだろう。

伝統的に猫を喰う民俗においては、猫というのは飼い物であっても最終的には殺して喰うので、猫の飼育には殺害のプロセスが含まれている。世界中で猫を殺しても民族固有の倫理に背馳しないのは猫を喰う食習慣を持つ民族だけなので、原理的に猫は中国人に象徴される民族によって殺される呪術的な可能性を常に有している、というかその種の民族に対しては猫を殺害から保護する呪術的な力は発効しない。

しかし、そんな中国人でもどうやら机だけは喰わないらしいから、ウチに在る四つ足で灰色の物体は猫ではなく机ですから喰おうとしてはいけませんよ、と「言い張る」わけである。猫一般が中国人一般によって殺される原理的な可能性を有しているのなら、猫ではないと言い張ることで殺害の可能性を拒絶するわけである。つまり、濃い灰色の四つ足の獣を「足が四本あって灰色『だから』机だ」と言い張ることで他者の加える危害から防御しようとするのは窮めて呪術的なロジックだということである。

一方、上の子の摩耶(バーミーズ・雌)のフルネームは実は「まやぐゎー」で、これは琉球ウチナーグチの「猫ちゃん」に相当する言葉である。オレと猫の生活圏が沖縄ではなく練馬や埼玉だから固有名詞として機能しているが、本来は属を表す一般名詞であり、厳密に謂えば名前を附けなかったのに均しい。

纏めて言えば、黒猫亭が扶養している二匹の猫は、「名前」に込められた呪術によって防衛されているということになる。「仮に『まや』と呼ばれている特定の猫」が何人にも呪術的に攻撃不能なのは、彼女の「名前」が通称としての一般名詞であって、その血統的実体を定義する真名は物理的に断絶した組織が管理しているからである。月夜が何人にも呪術的に攻撃不能なのは、「猫を殺す行為の正当性が成立可能な原理の適用可能性」を呪術的に完全封鎖し、名附けの呪術によって殺害不能な対象に擬態させているからであって、呪術的な意味では殺害不能な猫だからである。

本当なら「つくえ」でなければ完全な呪術とはなり得ないのだが、「つくよ」が「つくえ」の言い換えであることを保証する音韻的な痕跡が残されているから、この呪術は或る程度効くのである。

そして、最も重要なことは、呪術的な防衛が可能なのは呪術的な攻撃に対してのみだということで、物理的に誰かが我が家に侵入して殺そうと思えば、これらの猫は簡単に殺すことが出来る。呪術的に防衛するというのは、たとえば「おまえの可愛い猫たちを殺してやる」という「呪文」による攻撃が飼い主のオレに対して発効することに対して、猫の名前に込められた呪術が防衛的に機能するということである。

つまり、オレが養っている猫たちは少なくとも呪術によって傷害することは不可能だということであり、物理的な攻撃に対しては勿論呪術など何の効力もないが、幸いなことに物理的な攻撃に対しては物理的に反撃すればいいだけのことで、何の不条理も存在しないわけである。単に、呪術という得体の知れないものに対抗するには、こちらも呪術を行使するしかないということである。

人間の内には水伝的なるものを受容する認識のシステムが予め存在していて、江本氏はそれに強力に適合する水伝という言説構造を掘り当ててしまっただけなのだと考えている。

謂わばこれは、神経ホルモンと受容体と麻薬のような関係だと言えるだろう。人間の中に予め受容体がなければ麻薬は作用しない。麻薬に酷似した物質が人間の神経作用において用いられていて、それを感受する受容体があるから麻薬は人間の神経作用を攪乱するのである。

心の内側の問題については呪術は力を持っている。それ故に、呪術は人に対してのみ有効である。この知見は京極夏彦の著作で初めて接したのだが、逆に謂えば呪術は人以外の対象に対してまったく無力だということである。

以前この問題を語った際に、オレは雨乞いと巫覡の例を挙げた。雨が降れば巫覡に力があるということであり、降らねば力がないということであり、力を持つ新たな巫覡を探すことで雨を降らせる可能性は温存される。つまり、降っても降らなくても「巫覡が雨を降らせることが出来る」という命題自体は結果によって検証されないシステムになっているわけである。

人間は何らかの正しい方法によって雨を降らせることが出来る、これ自体は疑い得ない前提として検証の手続が捨象されているわけである。

巫覡は呪術的な力を持っていると信じられており、雨を降らせる「正しい方法」を識る存在だと認識されている。普通の人がただ祈ったところで雨は降らないのである。巫覡のように、正しい力を持った者が正しい方法で祈るから雨は降る、そういうことになっているのである。

何やかにやの理屈を並べれば、前後併せて一カ月程度の時間を稼ぐことは出来るだろうし、明日雨が降りそうだと思えばその機を逃さず急遽儀式を執り行えば好い。降りそうもなければ、出来るだけ時間を稼げば好いのであって、どうせいつかは必ず雨が降る。

そして、通年なら降るべき時期に一カ月もの長期間一滴も雨が降らないというのは、よくよく異常な気候である。そのような「よくよく異常な気候」に運悪く当たってしまったなら、「我が法力も及ばず」と負けを認めれば好い。何とか降雨が間に合ったのであれば、堂々と成果を誇れば好い。

善くも悪しくも、呪術というのはこのようにして、人力の及ばぬ外部の対象を人力が操作しているかのように演じるまねびなのである。その場合、そのまねびを信じられることが重要なのであって、結果それ自体はそれほど重要ではない。

しかし、一方では、雨乞いを行うメリットが少ないという現実的な事情もまた存在するのであって、雨乞いのシステムが上記のようなものであるなら、つまり現実的には農耕の実態において何ら益するところがないということになる。雨乞いは、何もしなくても降る雨に儀式のタイミングを摺り合わせるだけなのだから、やっぱり降って欲しいときに雨は降らないわけであり、この事実自体は変わらない。結果的に言えば、やっぱり農作物にダメージは出るのだし、雨乞いをしたからと謂って農民に得るところはない。

それ故に、雨乞いというのは次第に「苛酷な現実に抗し得る力が人間にはあるという慰藉以外に望み得るものがない場合」にのみ行われるようになる。つまり、雨乞いは農作物を救う為に行われるのではなく、農作物の壊滅的な被害とそれによってもたらされる悲惨な現実に疵附いた人間の心を救済する為に行われるのである。

人はつい最近まで、現実の在り様に対して心の在り様を摺り合わせることでしか世界を受け容れられなかったのだが、心の在り様に合わせて世界を変えようと望むことから実証主義的な世界観は生まれるのである。前者の場合、世界を心の原理で読み説くことで心の内側と世界を合一させるということであり、後者の場合、世界の拠って立つ世界それ自体の原理を解明することで世界と心を分断する思考法である。そして、これは人間の内側から出てきた原理ではない以上、人間にとって異質な原理である。

人間にとって自然科学的な原理が異質なものであり、自然に感じられないのは、心の外側に存在する原理だからだとオレは考える。だとすれば、呪術的な原理が何故かくも強力に易々と人々の心に適合するのかと言えば、それが人の心の内側から出てきた原理だからである。

人は「自分の外側に在るもの」が世界であると大昔から認識してはいるのだが、その実その外側に在る世界とは自分の内側に在る心に映じた影でしかない。このような内と外を直結したようなクラインの壺的な人間の認識構造において、心の外側に内側を適合させる呪術という原理は窮めて強力であり、人間にとって窮めて自然な原理なのである。

実証主義が発達のプラトーを迎えた近代は、この内と外を接着した不思議な心の壺を毀して世界を心の外側に改めて置き直したわけであり、かくして内と外は神話的に分断されたわけである。その上で心の外側に在る他者的な原理を語り始めたわけで、それは未だ多くの人々にとっては異質な言葉であり異質な原理でしかない。

この現代においても、そんな不思議な心の壺を未だに保持している人は少なくないのであり、たとえば江本勝氏の壺はかなり強力で大きな壺である。彼はその壺の中から水伝という旧くて強力な呪術を取り出したのであり、その呪術に対するレセプターを多くの人々が未だ心の奥底に温存している。そのような壺の欠片は、心の外側に在る事象に対する表向きの発言権は喪ったとは謂え、心の内側の事柄に関しては未だ人々の日常生活において窮めて有用だからである。

これまでの話の連続上で謂えば、たとえば自然科学の原理は、旧い時代に巫覡が識っていると目された「正しい方法」に類似したものである。しかし、いにしえの巫覡たちの識っていた「正しい方法」とは、心の内側に映じた世界の影に対して働き掛けるものであったわけだが、自然科学の原理とは、心の外側の世界に直接働き掛けるものである。

我々は、善くも悪しくも、そのようにして内側に生じた影ではなく本当の外側に在る世界に生きるようになっている。

心と世界はすでに分断されてしまっているのである。

ニセ科学一般を考察する場面で呪術に対する考察が欠かせないのは、科学では在り得ない言説が表面的に科学を標榜し擬態するというその在り様が、窮めて呪術的だからではないかとオレは考えるようになった。

ニセ科学言説というのは、心の外側の世界を司る異質な原理を、再度心の内側に在る自然な原理で再話した人間主義的な言説なのではないか、つまり、実証主義や自然科学によって分断された心の内と外の世界を再び合一させようとする心の内側の原理の巻き返しなのではないか、と思うわけである。

それは、自然科学の原理がすでに存在し、心の外側の世界を記述する異質な原理が領する分野もまた、心の内側に映ずる影として再度心の内側に包摂し、全体性の合一に回帰しようとする人間性のダイナミズムなのではないか。

「十分に発達した科学は魔法と区別が附かない」というクラークの言葉ではないが、巫覡でも科学者でもない市井人から視れば、呪術も科学も「正しい方法」という意味では大差なく見える。そして、呪術における「正しい方法」というのは、心の内側に働き掛けるものでしかない以上、実は外側の世界における実体がないものである。

それ故に、呪術における「正しい方法」は科学の道具立てと置換可能であり、それは呪術における最重要な要素が個々の原理原則ではなくその容れ物であることを示唆している。心の外側に対して影響力を持たない原理原則を如何にして発効しているかのように擬装しまねぶのか、これが呪術の持つ本質だとオレは考える。であるから、科学もまた呪術の言葉で語り直され、心の内側でしか発効しない紛い物のガジェットとなる。

おそらく、ニセ科学とはそのような呪術なのである。

何を言っているかというと。人権が自明でないということは、善悪の無根拠を理由に善悪を善悪として模索しないことではない。カントも言った通り、模索の果てに普遍として根拠は示されるから。最初に参照さるべき規範としての真善美があるのでなく。真善美を根拠として示される倫理判断とは、マッチポンプに過ぎず倫理判断ではない。人権が自明でないから、善悪を概念として白紙撤回してよいということではないし、共同体規範を善悪の代替物とすべきでもなく、ひいては公共圏における迷惑を善悪の代替物とすべきでなく、あまつさえ自然科学や社会科学を善悪の代替物とすべきことではまったくない。自然科学や社会科学を代替物として説かれる善悪を現代の真善美と言います。

僕たちは善意や熱意にどう対応していけばいいのか。
これまでの経験でいうと、ニセ科学問題で一番やっかいなのがこれです。答はないです。
 
少なくとも「善意だからいい」とか「熱意があるんだからいい」ではないことは明らかなんですけれどね。

水伝がいつまでも科学のフリをやめないのは、やめちゃうと科学の結果以外の何者でもない<機械>が売れなくなるからですね。10万とか100万とか利益率いかほどかと。

うわぁ、これが、「ほかにないとくしゅなきのうをもったじこけいはつようはどうきき」かぁ……

こんなすばらしいものが、たったの30、40万円や200万円でてにはいるなんてすばらしいなぁ……(洗脳されかかっている)

というわけで、「水からの伝言」は波動測定器や○○シール(「ありがとう」だの「愛・感謝」だの)、ナントカ還元水ばりの「水」商売など、金儲けに直結しています。単なるトンデモ言説というだけではない。

もっとも、江本勝と「水からの伝言」について言えば、本質的な問題は、彼らの商売というよりも、それが持つイデオロギーなんだと思っています。つまり、主観と客観を曖昧にし、念ずれば叶う、逆に言えば自分の思う通りになってくれないのは、すべて自分が悪いのである、という思想。「自己責任」論とも絡んでくるでしょう。

「心に描いただけで、思っただけで、変えることができる」という発想法は、社会性の欠如を生み出してゆきます。

私たちは、対話やかかわりの中で、ある時は自己を主張しながら、ある時は自分を抑えながら、苦労しながらかかわりの中で学んでいくのです。

とおっしゃられている。この短い文章の中で、水伝問題の核心が端的に述べられていて、ちょっと唸ってしまった。

 この方、神父さんである。つまり、ある意味「祈る」ことのプロ、でもあるわけだ。そういう立場の方が、思うだけではダメで対話やかかわりが重要である、と説く意味はとても大きいものがあるのでは、と思う。

「一般的に、動物は正しい振る舞いのコストと間違った振る舞いのコストのバランスをとらねばならない」とフォスターは言う。
「風ではなく本物のライオンがカサカサと音をたてている可能性を投入すれば、あなたは迷信的な信条を予測することができる」

複数の潜在的な"原因"がある出来事の前兆となる場合、正しい関連性と間違った関連性はさらに分別が付かなくなってしまう。カサカサなる葉と、例えば満月がライオンの到来に先立つかもしれないとき、一つの"原因"がそうするよりもいっそう迷信の方向へバランスを傾ける。

これが迷信が成立する基本モデルである。

1.迷信を信じることによる損失がほとんどなく、また正しい知識を持たないことによる損失も小さい場合。
陰謀論系統がこの代表事例に当てはまる。
動機となる感情が「正義感」や「善意」であるあたりが困りもの。
アポロ陰謀論だのケムトレイルだの、主張者は陰謀論の真偽に関わらず別に大したリスクを追うわけじゃないし(精々周りから白い目で見られ友人がいつの間にかいなくなる程度)、正しい知識を得たからといって何か得するわけでもない。
以前911陰謀論関連で、きくちさんが連中を「陰謀論をもてあそぶ人」と批判していた。実際に彼らはリスクを負う覚悟なく、その自覚もなく陰謀論をもてあそんでいるが、それだけでなく彼らは自分の心理的特性を把握せずに「安易に信じる人」でもある。

2.迷信を信じることによる損失がほとんどなく、逆にそれを信じることによるメリットがあると当事者が思い込む場合
代表事例としては「水からの伝言」が挙げられる。
水伝信者のお決まりの主張「科学的には間違っているとしても、道徳的に云々」という奴を知っていれば納得できるはずだ。
実際には「私はネギを背負ったカモです」と主張するに等しいわけだが。
インチキ医療系や水商売もこの系統に入るか。

3.正しい知識を手に入れるためのコストが高すぎ、逆に迷信を手に入れるコストが十分安い場合
疑似科学全般がこれに当てはまる。
科学が高度化、専門化するにつれて個人がその全体像を把握することは不可能になりつつある。
ただ一つの専門を突き詰めるだけでも長期間の高等教育を受ける必要があり、正確な知識に基づく判断力を手に入れるのは並大抵のことではない。
一方で疑似科学の特徴は、素人でも理解できる簡単な論理と明快に白黒つける断定だ(無論それが正しいことを意味しない)。
科学と疑似科学のどちらを選ぶべきかを判断できるだけの情報を持たない人間が、入手コストの差によって一定数疑似科学に流れることになる。

疑似科学批判に怒る人々に伝えたいことの一つは、すくなくとも本来の科学はほとんどの疑似科学より平等であるということである。科学的言説は「科学である」という権威によってその正しさが保証されるのではなく、あなたも、私も持っている常識によって認識可能な経験によってのみその正しさが保証される。まっとうな疑似科学批判は、疑似科学が制度的な権威から認められないことで疑似科学を批判するのではなく、私にも、あなたにも平等に理解可能な経験にそぐわないから、疑似科学を批判しているのである。そして、疑似科学を信じる人を下に置こうとしているのではなく、疑似科学を信じる人と共に認識できる世界を共有しようとしているのだ。

そして、疑似科学は科学のカルト化した側面の劣化コピーにすぎない。疑似科学は、それが制度化された「科学」のより高い階層にあることを自覚的にしろ、無自覚にしろ偽って主張することによって、その信者の権力願望を刺激する。それが大衆的に見えるとしても、信者を他の大衆より上位に置くことを目的にしている意味で大衆蔑視的であり、科学より平等に見えるとしても、信者以外の人々を下にひきづりおろすことのうらはらでしかないのである。