秋葉原通り魔事件

秋葉原の通り魔事件について色々見てみた。

容疑者の動機について

まずなんであんなことしでかしたんだって話ですね。
痛いニュースなんかではこれもんで。

さっぱりわかりません。

歪んだ性格なのはわかる。

随分好みが偏ってるな。

童貞コンプレックスだってさ。

と思ったら女と部屋に居ました。
まぁ参考にしようとも思わない感じですが、ざっと見て受ける印象としてはただの馬鹿野郎です。
趣味嗜好は特別なものとも思えない、「キモオタ」とか「お前ら」なんて言葉で括られてしまうようなものだし、そこからはみ出す部分もスポーツカーだったり出会い系で知り合った女を部屋に入れたことだったり、何ら特別なものは感じない。ありふれてる。
彼が案外ありふれてると思った人はやはりいるようで。

一通りのニュースを見て、一緒に見ていたお袋とカミさんがどちらともなく言った。「なんか別に、フツーの人っぽいね」「とんでもない人物のように言われているけど、殺したりした事を除けば、他はそこらへんにいる人と同じじゃない?」びっくりした。

実は、自分も同じように考えていた。自分はあの犯人とは今でこそ違うが、犯人と同じ年齢の頃は、考え方や言動などはほとんど同じだ(自分は今34歳)しかし、その思いをクチに出す事はしなかったが、自分を見てきたお袋やカミさんは同じ臭いを嗅ぎ取ったのかもしれない。

ワープア状態だったのも同じ、趣味嗜好もきっと同じ、派遣で全国転々としてたのも同じ、会社を恨み、社会を恨み、モテなくて悩み、ささいな事でキレたり、つまらない事でトラブルを起こしまくっていた。契約の更新時や終了間際の時には特に酷かった。ぎりぎりで警察沙汰にならない程度の酷い人間だった。

でも、自分と犯人と違うところは、親を恨んでいない、親友と呼べるやつが数人いる、こんな俺を哀れんで母性本能がちょっと勘違いしちゃった彼女がいたこと。もちろん、殺人などしないが、今はたまたまそうなっていないというだけで今後は解らない。きっとしないけど。

ただし僕が普通だと思ったのはメディアが報じている趣味嗜好についてであって、勢い大量殺人に至るような人間はやはり特殊だと思います。殺してやろうと思っているのと実際に殺すのは結構違うんじゃないかな。
それに気に入らないのが掲示板の書き込みに見られるやたら人を責めるような物言い。この時点では他者を受け入れるつもりが無いのは良くわかる。だったら何で掲示板に書き込みなんかするのかね?一方的に主張を垂れ流したいだけで、自分と違うものは全て排除する姿勢で。匿名ダイアリーの人は社会を恨んでも親・友人・彼女といった個人は拒絶していなかったようだが加藤容疑者はどうなのか。
或いは最後に試してみたのだろうか。止められる人間がいるかどうか。拒絶することで自分の存在を示そうとしたのか?

彼が孤独だったというのは、彼自身がそう受け止めていたのは間違い無さそうだ。自分で壁を作っているのだから。これは彼自身の問題だと思うが、どうもトヨタ系列の会社に派遣で勤めていたことと結びつけて考える向きが多いらしい。

派遣がいけない?

しかも、東富士工場は非常に広く、人の配置もまばら。親父いわく、「隣の人と100mは離れている」ウチの親父はいつだって大げさなので、そんなに離れちゃいないだろうけど、数十メートル単位で離れていると見ていいだろう。

休憩時間や出入りの時間などに意識しなければ人と会話をすることも無いそうだ。

しかも、ハケンは出入りが激しすぎていちいち顔も覚えていない。親父いわく、ハケンのことだから知らないだそうだ。まったく(怒)

そもそも犯人の環境は、他者と関われないシステムとして存在している。

見知らぬ土地に連れて来られ、社員からは顔を覚えてもらえず、あたかも部品の一部として明日の生活を奪われる。俺はボルトじゃねえ。

派遣同士のつながりというのはどれほどあったのかは分からないが、(ニュースを見ていると同僚同士多少はコミュニケーションがあったようだが)希薄だったのではないか。

他者と関わりと持てず、漫然とモチベーションの上がらない仕事をしながら明日の生活に怯える。

他者のいない生活の中で、自分ばかりが肥大してしまう。ツッコミすら入らないのだから。

派遣会社も、派遣社員の同僚も良くあるバックレとしか思わず、社員はいなくなったことも知らない。

そのことを思いついたとき私は全身が寒くなった。

身震いするほどの孤独がそこには存在する。

人間としてみなされていない人は、他の人も人間としてみなさない。凶行の背景には、凍えるほどの孤独が生み出す負のスパイラルがある。

広い工場で会話も少なくひたすら作業に打ち込むというのは、確かに苦痛になる人間が多いだろう。しかも明日突然仕事が無くなるかもしれないという。そんな状況は気が滅入ることだろう。
しかし加藤容疑者はそこから逃げ出すことが出来たはずじゃないのか。親だって生きている。今の仕事がどうしても嫌なら辞めれば良い。次の仕事が見つかるまですねかじりしてれば良いのだ。
それにこうした労働環境は必ずしも悪いものとは言い切れない。人と接することの方が苦痛で、人と会話しなくて良い仕事を選ぶ労働者だっているかもしれない。この労働環境について問題なのは不安定な雇用であるということだけではないのか。

一方でこんな意見もある。

テロなのか?

秋葉原の無差別殺人事件を見ていて思ったこと。

青年が「巖頭之感」という遺書を残して華厳の滝に飛び込んだ、昔の事件を思い出した。個人と社会とを切断することに失敗して、事件が社会に接続されてしまった例として。

「悩める青年は、自殺という手段を通じて、自らの悩みを世に問うべきだ」みたいなロールモデルが一人歩きした結果、そもそも死ななくてもいい人が、「死ぬべき」なんて社会の気分を受け入れて、ずいぶんたくさん亡くなったのだと思う。

最近になって、あの人が自殺したのは、本当は恋煩いみたいな個人的な悩みが原因であったなんて結論が出たけれど、当時の政府は、それがたとえ欺瞞情報であったとしても、「あれは個人的な事件である」と早いうちから宣言を行って、遺書を残して自殺した学生を、社会から切断するべきだった。

事実が出てくるのはこれからなんだろうけれど、秋葉原の無差別殺人は、たぶんあれはテロルではないのに、現状は「成功したテロル」、「虐げられた普通の人」が、市民に暴力を行使して、社会が暴力で揺さぶられる、それこそ武装テロをやってたような人が見たら、「こうしたかった」お手本みたいな状況になっている。

事件が社会に勝手に接続されて、政府だとか、企業だとか、様々な人達が、個人的な暴力に対して、社会として反応している。これはよくないことだと思う。

社会の状況がどうであれ、「殺人を予防する」という立場からは、政府はあれを単なる殺人事件として処理しなくてはならなかったし、派遣労働の規制とか、労働者の保護だとか、たとえそれが緊急に必要なことであったとしても、それは事件とは全く無関係の政治の問題として行われるべきだった。

僕はこちらを支持します。
自己の不満を無差別殺人という形で処理するようなキチガイに一体何を見出そうというのか。こんな特殊なヤツが何の参考になるのか。労働問題に結びつけようとする人間の中には「運動」にかぶれた者もいて、悲劇を政治的に利用しようとする動きに警戒心を抱く。

加藤智大にせよ赤木智弘にせよ、苦しむ人の代弁者ではない。代弁者にしてはいけない。結果苦しむ人が苦しむ人を傷つける内戦モードに突入する。笑うのは山の頂上でその様子を伺う人たちだけだ。

秋葉原の通り魔の加藤智大を格差社会の代弁者で、非正規雇用の叫びのように言っている人間がいるが、これは一面で正しく、一面で間違っている。確かに、彼は優秀で東工大の大学院まででていて、努力して頑張ったのに、一歩足を踏み外して「派遣社員」という工場労働者になったという、現代の諸問題を引き受けているように見える。ここから、プレカリアートとか非正規雇用の鬱屈の代弁者として賞賛する声までちらほら見えている。しかしこれが決定的な間違いであることを指摘する。

  まず、彼が若年者雇用の鬱屈の表現者であるならば、なぜ犠牲者は同じく若年者を狙ったのか。資本主義の祝祭都市で消費を享受しているから敵だと思ったのか。本来狙うべき敵はエスタブリッシュ層や経済エリートなどではないか。もちろん、通り魔なんてまったく肯定はしないが、もし仮にやるとしても、本当に最後の手段として暴力を使うとしても、被害を最小限にして効果を最大限にするべきで、本当にやるんだったら経団連を爆破とか国会に突入とかするべきなのだ。なぜしなかったのか。近づけないからである。

  エスタブリッシュメント層は、公的、私的にセキュリティを上げている。ゲーテッドシティにしたり、警備員をつけたり、監視カメラをつけたり、オートロックにしたりである。私のような貧乏人はオートロックには住めない。これはどういうことか。つまり、通り魔をやっても、殺されるのは貧乏人だけということになるのだ。

テロ説には無理があるわけですね。当の本人に目的意識が有ればあんな杜撰な犯行は有り得ない。
ちなみに昔から似たような事件はあります。

秋葉原通り魔事件の加藤智大容疑者はトヨタの工員で、彼女ができないからああいうことをやったと自供してるということなんで、1977年のこの事件が引き合いに出されるかと思っていたのですが、どうもあんまり取り上げられていないみたいなので記しておきます。

昭和52年(1977).5.30〔23歳がモテないのでむしゃくしゃして連続通り魔殺人〕
 大阪府寝屋川市の路上で、トヨタオート大阪のセールスマン(23)が、通行中の男性(48)の胸をいきなり包丁で刺し、倒れたところを馬乗りになって全身9ヶ所をめった刺しにして殺害した。6.1に大阪市の路上で、通行中の主婦(28)の胸をいきなり包丁で刺し、倒れたところを馬乗りになって4ヶ所をめった刺しにして殺害して逃走、すぐに逮捕された。
 京都産業大学国語学部を卒業して4月から自動車セールスマンになったが一台も売れず、また同僚たちはガールフレンドと楽しんでいるのに自分はモテないので悩み、むしゃくしゃして女を刺せばスカッとするだろうと包丁を買ったもの。愛媛県宇和島市の農家の6人兄弟の末っ子。無口で真面目で、人付き合いが苦手だった。
 軽度の鬱だが正常な判断能力があるという精神鑑定だったので検察は起訴したが、大阪地裁は精神分裂病心神喪失として無罪判決を出した。トヨタオート大阪は主婦の遺族に1420万円を支払うことで示談、犯人の家族からは190万円が支払われた。この年の大卒初任給95,000円。

主婦は2週間苦しんだ末に幼い子ども3人を残して死んだのですが、無念だったことでしょう。セールス勤務中の犯行だったことからトヨタオート大阪は訴えられて見舞金を出すことになったみたいです。派遣社員ならどういうことになっていたやら。
男性のほうはどの新聞でも「住所不定の廃品回収業」となっていて、いわゆるホームレスなんでしょう。身寄りがなかったので賠償金などは払われなかったようです。
入社2ヶ月で一台も売れないというのは珍しいことではないらしいですが、しゃべるのが苦手で大学でも友達がいなかった彼には1日50軒回ることがノルマのこの仕事はそうとう苦痛だったみたいです。まだ見習い社員の身分でクビの恐怖もあったかもしれませんが、でも仕事のことよりも、とにかく彼女が欲しいということを取調べでは訴えていたみたいです。

モテないので女を刺したっていう馬鹿野郎です。この人も相当悩んでたんでしょうけど、じゃあ同じようなノルマを課された見習社員がみんな犯罪に走るかといえばそんなはずは無い。心神喪失で無罪判決ということですが、たまたま条件が揃ってしまったんでしょうね。
昔の方が凶悪犯罪が多かったということで他にも沢山の事件が羅列されています。文通が今でいう出会い系サイトのように機能していたとか郵便の方が爆弾送ったりできるのでネットより怖いなんて話も。

しかしこの事件を社会問題として語ろうとする人は多い。派遣労働者だったことで彼は英雄として祭り上げられようとしている。

東京・秋葉原で8日、1人の青年が一瞬のうちに7人もの命を奪った無差別殺傷事件。衝撃的なこの事件について、ポストモダン思想からオタク文化まで、幅広い表現活動を展開する批評家の東浩紀氏(37)に寄稿してもらった。

 容疑者は彼の苦しみを大人の言葉で語らなかったかもしれない。怒りの対象も曖昧(あいまい)だったかもしれない。彼が凶行の現場として秋葉原を選んだのは、おそらくはその曖昧さのためだ。もし彼が首相官邸経団連本部に突っ込んでいたら、だれもがそれをテロと見なし、怒りの実質に関心を向けただろう。彼はその点でいかにも幼稚だった。無辜(むこ)の通行人を殺してもなにも変わるわけがない。しかしその幼稚さは、怒りの本質にはかかわらない。だから、筆者はこの事件をあえてテロととらえたいと思うのだ。

 容疑者はむろん厳罰に処すべきである。犯罪の計画性と残虐性は明らかであり、情状酌量の余地はない。また、このような事件は二度と起きてはならず、容疑者を英雄視することは許されない。ネットの一部では共感の声が現れているが、それこそ幼稚と言うべきだ。

東浩紀なにしてる。
首相官邸経団連本部に突っ込んでいたら」とか言っちゃって。「幼稚だから」と無理を言ってテロだった事にしたいらしい。その口で「容疑者を英雄視するのは幼稚」と言ったって説得力ないだろ。自己批判ですか?
「残虐な犯行」とか「厳罰に処すべき」って言葉があちこちで免罪符になってやしないか。
こちらも労働者の復讐という筋書き。

赤木智弘氏のコメント。

起こるべくして起きた事件であると思う。

社会が非正規雇用の労働者を粗末に扱ったからこそ、非正規労働者に復讐をされるということになってしまった。

しかしながら、若い人が亡くなったことは残念だ。2ch等では渋谷でやればよかったというような意見があるが、むしろ巣鴨でこれまでこんな社会を作り上げた人をまきこんだほうがよかったと言うべきだろう。

また、マスコミの報道では加藤容疑者を異常者扱いしているが、それは社会の責任を問わないものだ。いわゆるオタクでも自分は加藤容疑者とは違うというようなことを言って異常者扱いをしているが、それは彼を社会から切断するものであってよくない。

「むしろ巣鴨でこれまでこんな社会を作り上げた人をまきこんだほうがよかったと言うべきだろう。」
何を言ってるんだこいつは。
僕も加藤容疑者とは違うのであんな異常者は社会と切断して語りたいです。
それにしてもこの辺の主張をする人達はかなり酷い有り様ですね。

増山:性欲が殺気立っている気がする。性風俗の充実に国が保護を出して3000円で女を抱けるようにするべきでは。

http://d.hatena.ne.jp/naoya_fujita/20080627

赤木さんも「加藤容疑者は、女を抱きたいんじゃなくて、継続してつきあえる相手=彼女がほしかったんじゃないか」と語っていたけど、そうか、彼らも消費されない関係を求めているんだ!当たり前か。

3000エンで公共売春所を作ったらいいんじゃないかと、いう提案しかできなかった自分に反省。

http://renaart.exblog.jp/9128410/

この発言が事実だとすれば、そしてそれがスルーされたのだとすれば、もう『ロスジェネ』には何も期待しないし、するべきではないと思った。既存の左翼に不満を表明するのも、アートと政治を融合するのも勝手だが、搾取されている人間のガス抜きのために、別の誰かを、国家まで持ち出して暴力的に搾取してよいなどと考える人間に、貧困や差別を論じる資格はない。それが「運動」や「政治」だというなら、そんなものは犬に食わせろ。怒りを表明しろというなら、こういう連中に平気で「言論」する場を与えた「ロスジェネ」ブームに怒りを表明したい。

単に周囲との比較でモテないと鬱屈している人間である以上、そのことを他者に責任を帰する余地はないはずだ。こんな身勝手な物言いが平気でまかり通るというなら、私は今すぐ自己責任論者に鞍替えしたっていい。誰がお前らのケツなど拭くか。

「ロスジェネ」とかなんだか知りませんが、新しい左翼系の何かですか?
モテなくて犯罪に走るんなら女をあてがえば良いってか。最低だなおい。風俗が性犯罪の抑止に繋がってる面というのはあるかも知れないが、3000円で売春だって?誰がそんな安値で売ってくれるんだ。差額は国家の負担ですか?アホ抜かせ。
「誰がお前らのケツなど拭くか。」まさにその通りですな。

モテないせい?

加藤容疑者の動機について彼女云々を中心にした意見もあります。

なぜ「彼女ができないことに絶望」するか。「年頃になったら誰でも恋人くらいできるものだ(できない奴はおかしい)」「恋愛こそは人生の果実」という考え方=恋愛至上主義が、世間一般にうっすらとあるからだ。

でも、できない人はできないのだ。20代でできるとも限らない。30代でできるとも限らない。それは仕方のないことだ。向き不向きがあるんだから。昔は「お見合いおばさん」がしゃしゃり出て、自由恋愛を飛び越して結婚するパターンが多かったから、自分で恋人を作れない人も相手を確保できただけであって、万人が恋愛できる、恋人を作れるなんてのは嘘なのだ。

しかし誰も嘘だということをはっきりと教えてくれない。

確かに恋人も出来ないのは人間として不完全というような物言いはあると思う。結婚だってするのが当然という「空気」がある。しかし出来ない人間だっているのだ。
しかし大概のブサイクはわかってるもんなんだけどねぇ。伊集院光のラジオリスナーとしてはこんなことが絶望に繋がるというのはまったく理解できない。
そこがブサイク友達すらもいなかったという悲劇なのだろうか。ブサイク同士で繋がり、嘘に気付く時間が彼には無かったのだろうか。

加藤ばかりではなく、深刻な社会問題など二の次にして、「彼女がいないのがすべての元凶」、「恋人さえできれば人生は薔薇色になるはずなのに」という、あきれるばかりのドリームを見ている人々が多数存在することは事実だ。


このあたりの事情を理解できない者は、どうにかして派遣問題一本に絞って事件を語ろうとしているようだが、非モテ非コミュ関連の議論を見続けてきた人ならば、「雇用格差」「労働条件の格差」などよりも、キモメンよりイケメンがモテるという「恋愛格差」の方が重大視されてきたネットの一部特性について考えざるを得ないと思う。

(2)派遣社員だから彼女もできないし結婚も夢のまた夢 → 男に経済力を求めて高望みをする女が悪い。人間性だけを判断基準にして相手を選べばいいだけなのに、顔や収入や学歴で伴侶を選ぶ打算的な肉便器ばかり。最近の女が醜いのがすべての元凶


という方向にねじまがっている言説をよく見かける。これは秋葉事件以前からの話で、なにも今に始まったことではない。

つまり彼は、「努力で収入が安定し、将来性が確保できたとして、そのおかげで彼女や嫁ができても嬉しくない。それは俺の経済力が目的なだけの寄生虫だからである。俺自身の価値を認めて愛してくれる女でなければやる気が出ない」と考えていたと思われる。派遣や雇用問題より恋愛問題を重視するのは、この心理によるものではないか。
こうした価値観はそれこそコピペのようにネットの至るところで散見されるものであり、furukatsu氏のいう「真の愛」の話もこれの一形態である。
(そして自分が、ブスで貧乏で根暗で何も取り柄のない女性に恋しないことは「打算」とは思っていないのも、共通のダブスタだ。)


しかしこれもまた、実のところは言い訳に過ぎない。今の時点では不可能な目的をいちばん最初に掲げることによって、実行可能な目的から無意識に逃げているのである。「打算的な女が悪い」という、ネットに流布する物語が自己正当化を後押しする。
このパターンは加藤の発言の至るところに見て取れる。

彼女が欲しいという加藤の悲痛な叫びを携帯サイトで聞きつけ、とりあえず彼が自分でできそうなことを周囲はアドバイスするのだが、「何でみんな服にこだわるのか」とはねつけ、解決不可能な問題「顔」を持ち出して、「顔が不細工だからなにをやっても無駄」と自己完結し、何もしようとしないことの理由づけにする。
当然だ。彼は「何をすべきか」の答えを求めて書き込んでいるわけではない。「何もしなくてもいい」と言ってもらうために書き込んでいるのだから。
「あなたは精一杯努力している。外見・学歴至上主義の女や社会の犠牲になっているだけ。これ以上何もしなくていい。ありのまま、そのままのあなたが好き」
という回答が、たぶん唯一の「正解」なのだ。

しかし、「彼女になりたい」と「正解」を口にする女性が現れたとしても、やはり彼はこう言ったはずだ。「嬉しいですが、私の彼女になってもあなたには何のメリットもないですよ」。


これは拒絶ではない。彼はあらかじめ試しているのだ。メリットもないのに俺の彼女(友達)になる覚悟が本当にあるのか。ダメな俺を無条件で愛する覚悟はあるのか。俺がどんな酷いことを言っても見捨てないか。決して俺を裏切らないと誓えるか?と。
顔も知らぬ相手にいきなり、「我にすべてを捧げよ。さもなくば信用しない」と要求する25歳の幼児に根拠不明の怒りをぶつけられて、何気なく書き込んだ人々はなすすべもなく退散するしかない。

なんか自分が漠然と感じたことを詳しく代弁して貰った感じがします。さすが女性の側からの意見は痛烈だなぁ。ブサイクの分際で金も持ってないしコミュニケーションの努力もしない。そのクセ今の自分をありのまま愛して欲しいだなんて・・・こんな甘えたヤツ愛せるもんか。お前の母親じゃないっつの。
ただそんな捻じ曲がった根性になる前になんとか出来たんじゃないかって話もある。

自分の承認

「自分の息子は酒鬼薔薇と同じ年代だから」と息子や近隣住民に豪語していたという加藤母が、加藤を一人の人間として承認していたとは到底思えない。あるいは「親が書いた作文で賞をとった」「親がいい高校に行けばいいと言った」という話は、すべて加藤の物語が親の物語の一部として機能している、つまり加藤の人生が親の人生と同一化していることを物語っている(この時点で、加藤には承認されるべき「自らの物語」が、そもそも家庭に存在していなかったということになる)。学問上では「肛門期」や「反抗期」の時期に親の物語から分裂する形で自らの物語が形成されるというが、彼のようにその時期を過ぎても親が子供から離れることを厭う例は多々存在する。

たとえば近年見られる「大学受験の『親の受験』化」もその一例だろう。大学受験は親が子離れする絶好の機会だというのに、親は自らの成功と子供の成功を同一視して、子供に成功を強要する。しかし親が子離れしなくても、子は家庭以外の社会に所属することで必然的に親と離れ親とは違う「自らの物語」を意識せざるを得ないのだから、ここでいつまでも子を自らの物語のひとつとして位置づけようとする親に対する反発が生まれることとなる。あるいは、他のどこでも承認の得られない親が、自らの承認と子供の承認を同一視し、子供が社会的に成功を収めることが自らの承認をも満たすのだと認識してしまっていることもあると思う。

物語物語ってうるせーなとか思ってしまった。どうもこの「物語」って言葉に今ひとつ馴染めないな。
確かに人には「こう生きるべき」という理想像が有って、物心ついた時には家庭のそれを共有していたりする。男は黙って行動するとか、年上は敬うとか、地道に働いて周囲の信頼を得るとか。そういう行動規範というのは、人間がどんな風に生きて死んでいくのかという物語なんだろう。人生設計の基礎みたいな価値観、真面目にコツコツ働くとか人の役に立つ仕事をするとかそんなのが。一花咲かせてこそ人生、なんてのもありそうだけど。夢はでっかく世界制覇。お前はナンバー1になれ。
とにかく同じ価値観を共有して自分も価値創造に加わっていると感じることが物語への参加なんだろう。
だけどそんな価値観なんてのは自分の育った家庭以外にも沢山あるのだから、違う生き方選んだって良さそうなもんだが。なぜ自分の物語を得られなかったのだろう。
まぁ問題は「承認」の方なんだな。
自分の方は新たな人生の物語を生きるつもりでも、それには別の価値観の人達に認めて貰う必要があるんだろう。「あいつはあいつなりに頑張ってる」と。受け入れられなければ自分の価値観を変えるか、今のまま認めてくれる人を探すかだ。そして自分の意思で価値観を変えるのは難しい。そうすると彷徨うことになる。今も昔も何かを求めて旅する人はいるが、自分の居場所を求めるって意味合いもあるんだろう。

自分はここに居て良い。こうやって生きていて良い。そういう感覚を得る為に誰かの承認が必要で、だけど他者を信用していない。そのくせ自分を承認してくれる存在としての恋人という幻想を持っていて、恋人が居るか居ないか、それが全て。
でもそうやって他者の承認を求める限り承認されない不安から解放されないんじゃないのかねぇ。特に恋人なんて、高確率でお別れするものでしょうに。所詮幻想。
僕の敬愛する姐御こと篠原美也子は「Dear」って曲でこんな風に歌った。

泣かないで あなたの痛みはあなたしか抱きしめられない
誰かのようには誰ひとり生きて行くことは出来ない

http://www.room493.com/discography/kawa.html#10

「他の誰でもない自分」なんてものを承認されなくたって、最初から自分は誰でもない。他の誰かになんかなれない。
あるいは僕がこう思うのは、歌を通じて擬似承認されたって事なのかも知れないが。だったら僕は「人は独りである」という物語を篠原美也子と共有している。でもその独りは沢山いてお互いを独りとして認める。みんなが自分の足でそれぞれの河を下って行くことを望んで見つめ合う。個人主義ってヤツなのかね。

なぜ秋葉原

オタクだから、だよね。自分に関係のある場所を選んだんだろう。他の都市は最初から選択肢に無かった。知らなかったんだ。

なぜ標的として秋葉原が選ばれたか? そんなの、小理屈こねなくても分かるだろう。「秋葉原がオタクの象徴の街」だからだ。それ以上でもそれ以下でもない。

結局仲間になれない他のオタクへの八つ当たりって面もあるのかな。とにかくこれは秋葉原のオタクにとって「内部の犯行」なんだろう。身内にキチガイが出たんだ。

事件の影響とか周辺の話

色々しょうもないことになりましたねぇ。

規制

とりあえず歩行者天国中止とか頭悪すぎ。

まず、歩行者天国だからこそであるならば、別に秋葉原だけに限った話ではないでしょう。
 歩行者天国ならどこでもトラックが突っ込んでこれるワケですから、もし防犯のためにホコ天をやめるというのであれば、日本全国のホコ天をやめなければいけなくなっちゃいます。
 模倣犯がどうだという話も同様です。
 過去の模倣犯を見ても、決して同じ場所同じ時間同じ方法によって犯罪を犯している模倣犯ばかりではありません。
 むしろ模倣犯というのは、手口を真似ただけの頭の悪い人が日本全国で増殖するという形の方が多いような気がします。
 そう考えれば、ただ秋葉原だけをねらい打ちにしても、片手落ちにもほどがあると言えるのではないでしょうか。

この手口を真似るという意味であるなら、そもそもホコ天は絶対条件ではないのです。
 例えば、渋谷の駅前の交差点とかで新宿のアルタ前の交差点とかで、歩行者が横断歩道を渡っている最中にトラックで突っ込めば、ほとんど今回の事件の形と同じような手口となるでしょう。

意味の無い規制にも程がありますね。
その点は色々な人が同時にツッコミ入れててヘーゲル奥田氏もそうなんですが、護身用武器について触れたのが面白いです。

ただ問題は、町中でああいう通り魔がでて、どうにも逃げ場がなくなったときどうするかという点です。相手がナイフ持ってたら、素手で対抗するのはとても難しいと思います。一番いいのはこっちが「より大きい武器」を出して、近寄るとこっちも刺すぞとか威嚇してやることですが、護身用武器持ってるとなんか「オイコラ」とか言って捕まるらしいじゃないですか。そんなんだったら必ず納税者の生命を保証してくれるのかと言えばそんなことぜんぜんなくて、誰か死ねば事件として扱えますとかイケシャアシャアと言いかねません。
ということで私は、自衛のために普段から「捕まらない武器」持って歩いてます。一眼レフのデジタルカメラなんですけどね。これけっこう重いんで、ストラップ持ってぐるぐる振り回して顔面とか脳天とかに直撃喰らわせれば脳震盪、うまく行けば頭蓋骨陥没骨折とかぐらいの破壊力があるかもしれません。いやあ危険ですねえ。規制されるかな?

いやぁ危険極まりないですねぇw
実際自分の身は自分で守るしかないですから、まず逃げ場が無い場所には行かないに越したことが無いですし、いざとなったら対抗する手段を検討しておいた方が良いかもしれません。特に非力な女性とかオタクとかは。
まぁさすがにカメラは勿体無いし、そういう趣味が無い人がその為に買うのも厳しいですが、ぶっちゃけ肩ヒモとか付いてて振り回せるものなら何だってOKです。その中に水の入ったペットボトルとか入れておけば威力が増しますし、水ですから警察にも咎められることはありません。殺傷力が低いような「気がする」のもミソですかね。この程度なら相手が死ぬとか考えずに遠慮なく殴れると思います。
まぁなんだったら硬い物を一緒に入れておけばさらに威力が増しますね。カンペンとか良いんじゃないでしょうか。サイコロとかいっぱい入れとくのもモーニングスターみたいで良いっすね。工夫すればなんでも武器になります。

ダガー

ダガーってダキア地方だったかで生まれた短剣のことで「ダガーナイフ」という呼称はおかしいはずなんだよなぁ。「脇差刀」とか書いてるようなもんじゃないだろか。

こちらはナイフショップなのでファイティングナイフの一種としてダガーを紹介しています。

 軍隊で武器としての使用を主眼においたナイフはファイティングナイフと呼ぶ。小銃の先に取り付け銃剣の機能を備えた物もある。
特にコレクターズナイフに類するファッション性を重視している物は、実利性は考慮されていないので道具としての利便性はない。
 これらは通信販売などで品質もあまり良くない物が安価で販売されており、有害玩具の一種としても問題視されている。
 その一方で軍事用の格闘を視野に入れた「実用的な」ナイフもあり、これらは耐久性や格闘という行為に使う道具としての扱い易さなどの面で、工夫が成されている。
日本では実用性はなく、サバイバルナイフと同様ナイフコレクターのコレクション対象としてのみ販売されている。

 上記の内、刺突・頸部切断用に作られた10〜30cm程度の両刃のものをダガーと呼び、刺す事と投げるのに向く短剣の総称でもある。
形状からナイフと見なされる事も多いが、用途は対人殺傷用の暗器(暗殺者用の隠し武器)などの武具の類である。
 急所を的確に狙わないと致命傷を与えられないため、武器としての絶対的な威力はあまりない。とはいえ、中世のヨーロッパの騎士のように徹底的に装甲された敵兵に致命傷を与える場合には、相手を地面に倒して装甲の隙間からダガーを突き刺す方が手っ取り早かったので、広く用いられた。

メインで使う武器じゃないんですよね。止めを刺したり、防御に使ったり、隠し持ったり。
とはいえ腐っても武器です。

北村会長によると、ダガーナイフは関市でも長年、米国メーカーの依頼で生産・輸出し、米軍に納入され戦闘用として使用されてきた。相手を突き刺すための両刃の武器で、耐用性が高く、殺傷能力が高いとされる。銃刀法では刃渡り15センチ以上の刀剣類の所持には許可が必要だが、凶器として使用されたダガーナイフは13センチ。北村会長は「殺傷能力も高いし、片刃の刀剣類と同じ基準の規制ではおかしい。そもそも国内では使用する必要がない」と訴える。

近年は生産コストの上昇に伴い、生産拠点が中国などにシフトし注文は激減しているといい、逮捕された加藤智大(ともひろ)容疑者(25)が今回使用したダガーナイフも中国で生産されたものという。

さて。確かに、ダガーナイフは殺人専用ナイフですからね。現在の日本では必要ないと言えば必要ありませんな。ただ、中には美術品としての価値があるものも存在するわけですし、そもそも、刃物を規制したからと言って、それを使った犯罪が減少するかどうかは疑問ですが。他の刃物、例えば柳刃包丁なんかも、結構な凶器になるでしょうし、牛刀だって、似たようなもの。

しかし、ダガーナイフの殺傷力を考えると、規制する意味があるのかも知れませんね。柳刃包丁なんかにはフィンガーガードがありませんから、血糊で手が滑って怪我をするでしょうし、刃の靭性が低いから割と早く折れてしまうんじゃないかと。この点、ダガーナイフは殺人専用だけあって、耐久性も抜群ですから。

中国製じゃ耐久性はちょっと不安かもしれないがそれは置いておくとして。
フィンガーガード、これ重要。つばぜり合いの「つば」ですな。「ドス」なんかは勢い良く差しても自分の手まで切らないように小指を引っ掛けると言いますが、こういった部位を備えた刃物なら渾身の一撃を加えられるというわけですね。しかも相手の攻撃も受け止められるし、深く刺さりすぎて抜けなくなるのも防げるかも。
あとはデザインによっては血抜き溝とも軽量化加工とも言われる「フルード」刀でいう「樋」が有ったり、そもそも厚みがあって先細りだったりなんて形してるとですね、抜き易くて沢山刺せると思うんですよね。
ただのナイフと同列で語るにはかなり危険だから規制した方が良いかも。
しかし規制の理由はこういう見方もあります。

今回のように大きく騒がれる事件が発生してしまった場合、マコトをカタチで示さなければならない のが日本社会であるため、お上としては何もしないと言うわけにいかない。
しかし実際のところ実効性のある対策を打つことは極めて困難である。お上もそれはわかっている。わかってはいるが何もしないわけにいかない。下手な対策を打つと世の中にとって迷惑になる。そこで窮余の策として、「カタチは保ちつつも世間的にあまり悪影響の無い対策」を消去法で選び、実行することになる。
なんて馬鹿げた、と思うかもしれないが、お上だけが馬鹿なわけではない。このような行動パターンは民間企業でもごく普通に見られる。馬鹿な対策を打つ方も本音では馬鹿だとわかってはいるのだ。

今回の事件についても、ダガーナイフを規制したところで包丁を規制しなければ同じことだ。トラックを規制すべし、という指摘も全く正しい。なのだが、包丁やトラックを規制すれば日本人の大多数が甚大な迷惑を蒙ることになる。そんなことはいくらお上でもおいそれとできない。
その点ダガーナイフであれば、規制しても影響はかなり小さい。実際どうやるかは私にもわからないが、ダガーナイフだけを規制して包丁は規制されないような形で実行されるだろう。そういった小細工をうまく行って世間にあまり迷惑がかからないようにすることこそ、優秀な官吏に求められる能力である。

今回のような非合理的な規制に際して、その非合理性を指摘しても、規制を撤回させる上ではあまり効果が無い。何故なら、日本社会の意思決定メカニズム自体が上述のとおり非合理的なのだから。「そんなことは百も承知だが、世の中ってのは理屈で回るわけじゃない」が役人の本音であろう。
もし、そのような規制がどうしても困るということであれば、うまく根回しして、例えばカタチとしては規制させつつ実効的にはザル法で骨抜きな状態に持っていく、というのが古来よりの日本的解決法である。「カタチは保った」ことでお上/政治家の顔を立てることがポイントだろう。日本ではそれが「政治」と呼ばれる(英語圏におけるpoliticsとは概念として大きく異なる)。日本の圧力団体は総じてそういったノウハウに長けている。

なお、「影響が小さい」と見るかどうかはお上の主観に左右される。特定のセクタに甚大な被害をもたらすような規制であっても、お上の目には「無視できる」と映ることもある。例えばアニメファンのセクタは多くの政治家から無視して良い対象だと見られているフシがある。そしてそれはおそらく、そういったセクタが上記のような日本政治のノウハウに疎いことと無関係であるまい。

意味が無いことに意味がある、ってわけですか。とりあえず対処したことにしてうるさい連中が黙ればそれで良いと。ますますもってくだらないですねぇ。

秋葉原通り魔事件後、秋葉原の路上でほとんどの警察官が警棒持ち、職務質問や巡回を
している。14日の秋葉原職務質問をされた男性が十徳ナイフを所持し、警察官10数人が
2時間以上取り囲むといったことがあった。

警察って暇なんだなぁ。ってこれもアピールですかそうですか。
警察の許可取ってトラックの先導でナイフを持って歩くデモとか誰かやらないかなw

どう見たって関係無いじゃん。ほんと政治的に弱いことで。

警察と野次馬

最初に刺された警察関係の方のあの、脇がガラ空きの駄目なベストを見て、このままじゃ色々とまずいなぁと思ったんですよね。僕としては。

また警官死んじゃうかも。

よく、皇居とか警視庁周辺に置いてある、鉄パイプをXに組み合わせて置いてあるあれ、ああいうのってなかったのかなぁと。無かったよなぁ。

流石にA型フェンスじゃ車両侵入に役に立つとは思えないんだよね。

攻殻SACだったかなぁ。対車両用の敷設地雷の描写があったけれど、ああいう感じで、中身爆薬じゃなくてパンクさせる事を目的とした路上敷設フェンスみたいなの、無いのかなぁ。どっかでリアルで見たような気がするんだけれどなぁ。

そうじゃなくても、先に書いたようなX字の路上バリケードがあれば、もしかしたら、車ではねるというのは防げたのかもしれない、と考えています。

暴走族止めるようなフェンスはバイクが限度なのかなぁ?
通過する車両をパンクさせるスパイクが付いたマットはTVで紹介されたことがあるような。カーペット広げるみたいに転がして道路を横切るように敷くヤツ。一瞬で敷けるから先回りさえできればOKみたいな。

今回の逮捕劇の動画を散々見たのだけれど、やっぱり発砲は厳しいんだよね。ニューナンブの弾丸が全部ゴムスタンだとしても、アレだけ近いと色々と問題もありますし。

個人的にはダブルオーバックの弱装ショットシェルとか…それでも厳しいのであればネットガンとペイントボールかと考えています。

特にペイントボールは比較的簡単な割には抵抗も少ないと思うし、中身をそれなりに工夫してみては。

ネットかなぁやっぱり。
刺又や袖搦の復活というのはダメだろうかw
刺又 - Wikipedia
袖搦 - Wikipedia
突棒 - Wikipedia
しっかし野次馬酷いね。

いっそいで鮮血見るために(←)とらのあなから出でって、すぐの交差点に走ってった。(は

そして転がってる人間…しかも真っ赤な血で道路が染まってた…

ああ…綺麗ってのはあーゆーのを言うんだよな(・∀・)(←異常者

これって何なんだろうな。自分や知人も巻き込まれる可能性があるというのに、なぜここまで決定的に他人事なんだろうか。
同じ秋葉行ってる若者でも、僕の知ってる「ゾンビ萌え」のリストカットとかそんな言葉も好きな某氏は、事件にショックを受けてごく当たり前の怒りと悲しみを表明していた。そんな彼が共感してたのがこれなのだが。

わたしは献花台の近くまで行くと「すみません」と声をかけて道を開けてもらおうとしました。
そうすると、次々に声を掛けてくる人に取り囲まれました。
「被害者の方の関係者ですか」「亡くなった方のお知り合いですか」……。
同じことを何度も聞かれましたが、わたしはなるべくご迷惑にならないように、早くお花をお供えすることしか考えていなかったので、
何も言わず献花台の前でお花の包装を解きました。すると、一斉にすごい数のフラッシュが光りました。

かつて、アキバの歩行者天国は、楽しい場所だったはずです。
自分の歌を聴いてもらいたくて、朝早くから機材を持って歌いにくる、歌手を夢見る女の子がいました。
手品をする人、ダンスする人もいました。コスプレしている人もいるようになりました。
でも、そのような人はすぐに注意され、逮捕されて警察に行ったという人もいます。
なのに、今ここにいる、大きなカメラやマイクを持って心が傷ついた人を待ち構えていたり、
人が亡くなられてお花がお供えしてある場所のすぐ横で携帯電話で打ち合わせのような事務的な話を大声でしている人達は、
道路を占領しても、車道に車を停めていても、何も言われないのです。
近くには警察官も何人かいましたが、注意したり、献花台の前をあけるように促すことはないようでした。
法律以前にあるはずの、人としての思いやりが、すごくほしいと思いました。

多くのテレビ番組では、アキバ系のオタクは気持ち悪く、笑い者にする対象として扱われます。
わたしにも「バラエティー番組でオタ芸大会をするので桃井さんとファンに出演してほしい」というような依頼がしばしばあり、お断りすることがあります。
もしそのような番組に出ていたとしたら、どんなふうに取り上げられるのでしょう。
少し奇抜な格好をしている時もあるし、面白い踊りを踊るけど、ルールを守り、

席を譲り合ったり、ごみを拾って帰ってくれたり、紳士淑女であるわたしのファンの人たち。
ここで献花台の前を塞いでいる人たちと、どっちがまっとうなんでしょうか。

事件後に現場の献花台へ群がり遺族を待ち受けるマスゴミども。わざわざ声をかける必要があるのか?何を伝える為なんだか。真っ当な感覚なら慣れ親しんだ街で起こった惨劇について見世物にするような行為は怒りを感じるわけで。
ただこういうのもあって、感情的に反応すると冷笑家がニヤニヤしている。

なんだかな。結局マスゴミは俗っぽい世間の目そのものだってことかね。
まぁ献花台訪問者を撮影する連中はともかく、事件の最中に写真を撮ることは必ずしも負の側面ばかりじゃないかもしれません。

 6月9日付毎日新聞夕刊(東京本社版)は前日に逮捕された派遣社員、加藤智大(ともひろ)容疑者(25)が、警察官に身柄を確保されパトカーに乗せられる瞬間を写した写真を1面に掲載した。写真説明には「通行人提供」。毎日新聞記者による撮影ではなかった。

 写真を入手した神澤龍二社会部記者によると、買い物客らでごった返す事件現場付近で目撃者捜しをしていたところ、容疑者の写った写真を持っているという女性を捜し出した。

 社内の議論の結果、写真を掲載することに決まった。小川一社会部長は「秋葉原というIT社会を象徴する場で、写真がみるみるコピーされて広まった。その事象そのものがニュースだ。読者にも説明したうえで、写真を掲載すべきだと考えた」と説明する。

 毎日新聞は加藤容疑者が携帯電話サイトに書き込んだ内容も紙面化している。加藤容疑者が今月初めに出社した際、自分のつなぎ(作業着)がないことで解雇の不安が増し、会社を飛び出した詳細な経緯などを書き込んだ内容を、毎日新聞の分析と合わせて掲載した。

 その記事について、桂敬一・元東京情報大教授(メディア論)はネット上の評論「メディアは今 何を問われているか」で「『社会的背景』の一部を理解させる重要な手がかりとして、目を引いた」と評価した。

携帯かデジカメか知りませんが誰かの撮影した画像が報道に使われたんですね。もうマスコミの記者だけが情報を提供する時代じゃなくなってきている。だからこそ個人的な撮影にも倫理が求められることになるでしょうね。でなければ「同じ穴の狢」と冷ややかな笑いを向けられることになってしまう。