図書館戦争の捨てたもの

図書館戦争がアニメ化されるにあたって、当然アニメと小説の媒体における性質の差や時間的制約から捨てられる要素があったんじゃないでしょうか。
それは何かという指摘と共に、それがどのような意味を持つ戦略であるのか、この作品がアニメとしてどのような位置付けになるのかという考えが述べられています。

つまり笠原郁さんの視点に焦点を絞ってみるならば、彼女にとっての「図書館」は戦争の「舞台装置」なのであって、決して「ペン=剣」、あるいは「図書館=戦争」という等号の関係が成立していないのであります。そしてそれを証明するかのように、作品のオープニングアニメーションで描写されるタイトルクレジットでは「図書館」に細いフォントが使用されており、「戦争」に太いフォントが使用されているのです。つまりですね、そこには「図書館<戦争」という図式が見えてくるのであります。そしてこの図式は他の登場人物たちにも当てはまるのではないでしょうか。と申しますのも、彼らは優れた「兵隊」としては描写されているのですが、優れた「読者」としては描写されていないように見えるからでございます。「本が好き・本を守りたい・本のために命を張る」という設定を生かすためにはどうしても、「本を読む」という描写を「戦争」と同じだけ描く必要があります。なぜならば、そうしなければ、物語作品としての形式(いかに描くか・どのように語るか)と、内容(何を描くか・何を語るか)における登場人物たちの「動機」のバランスが視聴者の心理において取れなくなってしまうからですね。

 この笠原郁さんに代表される人物造形と、それにともなう彼/女らの行動を是とするか否とするか、ここがひとつの大きな作品評価の別れ目でございましょう。

このようにアニメの図書館戦争では本をこよなく愛するビブリオマニアとしての描写はされることが無く、にも関わらず命がけで本を守る人々の動機が、ほぼ図書隊という組織に属していることだけしか無く説明不足の状態にあります。って僕原作読んでないけど。
そしてそれはあえてそのような傾向で作られているのではないかと考えることもできる。

 わたしがことさらに強調するのも恐縮なのですが、今回、『図書館戦争』の制作に当たっているスタッフ陣は過去の実績から考えても、十分に「趣味としての読書」を作品として描写できるアニメータさんたちですし、さらに言えば、「仕事としての読書(:本に関わる仕事)と「趣味としての読書」を作品として同時に描くこともできるだけのラインナップであることは、指摘させていただきたいと思います。にもかかわらず、そのようないくつかの選択肢のなかで、『図書館戦争』というテレビアニメは「仕事として本にかかわる」人々を徹底して描くという方向に舵を切ったように見えるのですね。

とまぁこんな見方もできるというわけで、どうなんですかね原作読んでる人的には。
さておきこの批評で本当に言いたいことは最後のこの部分です。

 図書館戦争という作品の本当の敵とは誰でしょうか。それは「メディア良化法」や、『コードギアス 反逆のルルーシュ R2』においても時折見出される戯画化されたナチスの親衛隊員のような人々ではありません。先ほども申し上げたとおり、この作品は「制・製作の舵取り」として、「趣味としての読書」の描写を完全に切り捨てております。ということは逆に考えますと、「趣味としての読書」が描写されたテレビアニメ作品がその真の敵なのでございます。では、それは何か。おそらく21世紀に入ってから、最も優れた「趣味としての読書」を描写することに成功したテレビアニメは、倉田英之さんが原作・脚本を担当し、枡城孝二さんが監督を担当して揺るぎない評価を確立した『R.O.D -THE TV-』(2003〜2004)という作品でありましょう(因みにこの作品は図書館戦争と同じくフジテレビで放送されており、さらにはこの2008年春クールからは、『図書館戦争』と同クールアニメとして東京MXというUHF局で再放送が開始されておりまして、偶然の符合とは思えない因縁さえも感じさせます)。

 この作品では国立国会図書館は占領されますし、イギリス大英博物館の図書館までもが大火災に遭遇してしまいます。さらには世界最大の古本屋街である神保町(:秋葉原のお隣ね)からかき集められた膨大な書物の壮絶な焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)のシーン、して日本のテレビアニメにおいては唯一「ビブリオマニア」と呼ばれる読書・書物中毒者たちが数多く描写された歴史的な名作でもございます。本来ならば、ショット・シークエンス分析をして『図書館戦争』と比較すべきですけれども、今、お話させていただいているコンテクストで注目するべきはですね、この作品においては、本をめぐる「さまざまな個人と私企業の対立」が大きな図式として存在していることです。もちろん、そこには当然、「国家」は介在いたしますが、描写のレヴェルでは決して存在感があるとは言えないのです。それに対して『図書館戦争』では「さまざまな個人と私企業の対立」がほとんどクローズアップされない代わりに、「国家、あるいは行政におけるさまざまな個人」がクローズアップされているように見えるのです。ここに時代と流行の移り変わりの反映を見ることは必ずしも誤りではないでしょうね。そして何よりも重要なことは、両者が相互に補完的な関係にあることであり、前者において足りない部分は後者において描写されており、後者に足りない部分は前者において描写されているという驚くべき事実でございます。

 そこでわたしが『図書館戦争』論者のみなさんに提示したいのは、「R.O.D」というテレビアニメと『図書館戦争』というテレビアニメを同じジャンルに属する作品として並べて見るということであります。

 これは何がしかの無理強いではなく、「図書館もの」というジャンルを語るにあたって欠かすことのできない視点であるような気がするのです。そしてこの事実を多くの方が指摘していらっしゃらないのはとても残念なことでもあります。『図書館戦争』というテレビアニメを視聴されている方で、もしも『R.O.D -THE TV-』を視聴されたことのない方には、この作品を是非ともわたしはお薦めしたいのです。小説や映画、音楽や演劇と同様に、表立っては目に見えてこない影響関係というものは、テレビアニメにおいても必ず存在します。ましてや『図書館戦争』の制作者たち(ある年齢・ポジション以上の方)が『R.O.D -THE TV-』という「図書館もの」アニメの金字塔を見ていないということは俄かに想像しがたい。それこそが技法としてのパロディや引用ではなくて、端的な「歴史」なのです。「わかる人にはわかる」」安っぽいパロディや引用、「過去の作品」のパスティーシュや風刺がもてはやされる昨今の移り行きの速いテレビアニメの世界においてこそ、そのような歴史的であると同時に、優れた作品との類縁関係(あるいは対立関係)を見て取ることが、より視聴者に求められている態度であるような気がするのは、はてさて、わたしだけでしょうか。

 いずれにせよ、『図書館戦争』の制・製作チームの「選択」が決して無思慮になされているわけではないということを、わたしたちは見逃してはなりますまい。

作品内で対立するものの違い、作品同士の補完関係。
二つの作品で登場人物が戦っている場所も立場も違うので、同じジャンルとも言えるんだけど全く違う内容。個人が巨悪に立ち向かう話と国家の組織同士が争う話ですからね。
まぁ中途半端に本好きの描写をやってRODと比較されることは得策でないというのもあるでしょうけど、それ以上に何か重要な意図があることでないと、わざわざやらない選択をする意味が無いですね。優秀なスタッフであるならあるほどに。
その意図が一体何なのか、明らかになるのを楽しみに毎週見たいと思います。