安倍首相謝罪

各誌様々だが産経のみは日系議員の感じた懸念を伝えている。

これに対し、日系のダニエル・イノウエ上院議員民主党)は「残念なのは慰安婦問題をめぐる米国内の動きだ。これまで7人の日本の首相が謝罪をしているにもかかわらず、こういうことが今後もずっと続くのかと思うと疑問を感じる」と応じた。他の議員から、慰安婦問題への言及はなかった。

Wikipediaによるとこの議員は「英雄」だという。米国で生きる為に米国人として認められようと必死で戦った日系人部隊の生き残りなのだ。戦傷で片腕を失ってさえいる。マイク・ホンダなんかとはわけが違う。

第442連隊戦闘団についてはこちら。

第二次世界大戦の戦争目的として、日本は「白人支配からの打倒」を謳い、アメリカでの日系人の強制収容を白人の横暴の実例として宣伝していた。アメリカはそれに反駁する必要に迫られ、日系人の部隊を編制することになった。第100歩兵大隊が軍事訓練において ひときわ優秀な成績をあげたこともこれを後押しした。

1944年10月24日、第34師団141連隊第1大隊(通称:テキサス大隊 テキサス州兵により編制されていたため)がドイツ軍に包囲されるという事件が起こった。彼らは救出困難とされ、「失われた大隊」(Lost battalion)と呼ばれ始めていた。10月25日には、第442連隊戦闘団にフランクリン・デラノ・ルーズベルト大統領自身からの救出命令が下り、部隊は出動した。休養が十分でないままの第442連隊戦闘団は、ボージュの森で待ち受けていたドイツ軍と激しい戦闘を繰り広げることとなる。部隊の攻撃は激しく、隊員たちはバンザイを叫んで攻撃を繰り返した。

10月30日、ついにテキサス大隊を救出することに成功した。しかし、テキサス大隊の211名を救出するために、第442連隊戦闘団の約800名が死傷している。救出直後、442部隊とテキサス大隊は抱き合って喜んだが、ある白人兵が「なんだジャップか」と吐き捨てたのに対し、442部隊の隊員が「俺たちはアメリカ陸軍442部隊だ。言い直せ!」と迫ったという逸話が残されている。この戦闘は、後にアメリカ陸軍の十大戦闘に数えられるようになった。また、失われた大隊救出作戦後、第一次世界大戦休戦記念日にダールキスト少将が閲兵した際、集合した戦闘団を見て、「部隊全員を整列させろといったはずだ。」と不機嫌に言ったのに対し、連隊長代理ミラー中佐が「目の前に並ぶ兵が全員です。」と答えたという話が残っている。

欧州戦線での戦いを終えた後、第442連隊戦闘団はその活動期間と規模に比してアメリカ陸軍史上でもっとも多くの勲章を受けた部隊となり、歴史に名前を残すことになった。特にその負傷者の多さから、名誉戦傷戦闘団(Purple Heart Battalion)とまで呼ばれた。戦闘団は総計で18,000近くの勲章や賞を受けており、その中には以下のようなものも含まれている。

日系人部隊の輝かしい活躍と目覚しい勲功とは裏腹に、戦後のアメリカ白人の日系人への人種差別に基づく偏見は変わることがなかった。部隊の解散後、アメリカの故郷へ復員した兵士たちを待っていたのは「ジャップを許すな」「ジャップおことわり」といったアメリカ人たちの冷たい言葉であり、激しい偏見によって復員兵たちは仕事につくこともできず、財産や家も失われたままの状態に置かれた。

このような反日系人的な世論が変化するのは1960年代を待たなければならなかった。1960年代のアメリカにおける人権意識、公民権運動の高まりの中で、日系人はにわかに「模範的マイノリティー」として賞賛されるようになる。

なお、レーガン大統領が、強制収容所の被収容者を含む日系アメリカ人のみによって構成され、ヨーロッパ戦線で大戦時のアメリカ陸軍部隊として最高の殊勲を上げた同団に対して、「諸君はファシズムと人種差別という二つの敵と闘い、その両方に勝利した」と特に言及し讃えている。