いじめ
痛いニュース(ノ∀`) : 「文科省への挑戦です」「前の予告は自分です」 "豊島の送り主"と同じ筆跡の新たな自殺予告文が届く - ライブドアブログ
釣りかよ。釣られて自殺したヤツ何人いるんだよ。なんか納得できないし筆跡鑑定とかしてくれないの?
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/853117.html
いじめ問題ではよく「いじめられる側にも問題がある」と言われ、「自分もいじめられていたが克服したから頑張れ」とか、「いじめられないように鍛えるべき」というコメントがメディアに登場する。
でもそういう人達は本当に今問題にされているような「いじめ」にあっていたのだろうか?
現在社会問題化している、自殺する程の「いじめ」というのはどういうものなんだろうか。
新潟の事件は「女子含む生徒の前でズボンを下ろされた」そうだ。
男子生徒どうしがふざけてやっていたなら単なるじゃれあいで微笑ましい光景なのだが、北海道の動画流出で明るみに出た「いじめ」の光景と重ねてみるとどうだろう。
「モグ」と呼ばれるいかにも気弱そうな男子生徒が机にしがみついている。腕を引っ張って喜ぶ女子生徒。
状況ははっきりわからないが、流出したのは「モグ狩り」と呼ばれる遊びの一環で撮影していた画像らしい。なんらかの行為に耐えかねてそうなったのだろう。女の子に引っ張られても喜んでいる場合ではない。彼が特殊な性癖なら別だが。なにしろ撮影までして明らかに楽しんでいる。抵抗してもかえって喜ぶんじゃないだろうか。生半可な抵抗じゃダメだ。
新潟の事件も日常的に複数から攻撃される状況がありエスカレートしていく中で、たまたま止めを刺したのがズボンだったら?
死ぬまで思いつめるようなヤツは反撃しても傷害か殺人事件に発展するまで本気でやってしまうだろう。
途中で反撃すれば双方ともそこまでエスカレートしないかもしれないが、それが可能な性格なら問題化しないし、標的になりやすいのは黙って耐えてしまう内向的な人間に違いない。
サレジオ事件でも内面では葛藤しながら耐えていたのが精神鑑定書に見て取れる。彼の場合「屈してはいけない」という自己規定に背けず限界に達するまで耐えることを己に強いた。負けたくない気持ちの表現方法が内向きなのである。それが命取りになってしまった。
こういう個性を持つ人間に「お前が強くなれ」というのは如何なものだろう。
いじめは歯止めがないとエスカレートする。そしていじめられる側の内面によって苦しみが増幅してしまう。
自分としては逃げ場があってもいいと思う。
上記二つのコメント欄より
いじめと一言でくくると | きち@石根
詳細な実体が明らかになったら世論が変わりそうな気がする。
反安部連帯・・日教組・・・いじめは目的であり道具。教育基本法、何が何でも改正反対の人たち | きち@石根
「学校教育における集団づくりとは民主的な集団の「力」を確立することであって
心理的な人間関係の調和をはかることではない。」
「初版にはまだ幾分か「仲間づくり」「ヒューマン・リレーション」的発想が残っていたが
これらの発想は、集団づくりの把握の深化と特設道徳-生徒指導体制に対するたたかいの中で克服された」
つまり「仲間づくり」「ヒューマン・リレーション」はたたかうべき敵なのだそうです。
そして目的は民主的な集団の「力」を確立することですと。
この解釈は同意。
「自然発生的なグループは、個人の不満や不安に対する情緒的な保障物としての
性格が強く、外に対して閉鎖的であり、内にあっては許容性・同調性を中心としているために
そこに内面的な規範を確立することが困難である。」
これっていじめ実行グループにも当てはまる性質ではないのかなぁ。これに対して、
こどもが不安・不満な感情をグループで緩和安定させることはだめなことなのでしょうか?
許容性も同調性もだめなの??
どこかにだめって書いてあるんでしょうか?あるならそんな記述には賛成できませんね。
「民主主義教育を仲良しや友情に解消したり、多数決の技術に解消したりすることは
民主主義からその背骨を抜き去ることである」
友情に解消はいかんでしょう。単なる多数決も良くないはず。なるべくきっちり議論しましょう。これはマニュアルに同意。
「第一に一見なんの事件も無くおだやかさのなかにあぐらをかこうとしがちな集団に
揺さぶりをかけ、ことさらにごたごたをひきおこす。それを班内のごたごただけでなく
班と班との対立、ぶつかり合い、として導き出す。
そのために相手にけちをつけ、やっつけ合うといった、いわばえげつない争いの方を
実戦的に大切にする。
〜〜
「おれはちゃんとやったのにおまえがだめだから」といったやり合いが起きてくる」
つまり小集団としての「班」を競争させることで相対的に教師の指導力を高めると
しているのです。
えげつない。班競争が激化して対立し、教師だけが成り行きを見守っているわけか。さらに、
「班員を公開で選ぶ場合、班員(一般生徒)の側に班長を選ばせてはならない。
班の編成権は班長に与えられたのであるから、それを許せば個人個人が班長を
再評価する事になり、全体の意思を個人の利益でふみにじることになる。」
ちょっとまて。班長が一方的に選ぶのか?班員になる方は拒否権無し?
そして次に集団の「核」として教師の「手」となるキーマンを選ぶとしています。
「核のイメージ--集団の内部にありつつ集団を客体化し、集団の外側に立ちこれを
指導の対象にすえなければならない」
「核的分子とは集団における指導的なちからの中核という意味である」
つまり教師の手先・内通者みたいなものだと言っています。
核的分子・・・?指導的なちからの中核・・・?
「核候補の諸要素」
・級長、学級役員その他リーダー経験者
・成績の良い者
・男子にあっては体の大きいもの、運動能力の優れたもの
・女子にあっては容姿の美しい者
・発言力を有するもの
・家庭のしっかりしている者
カリスマ指導者っすか。
「さて、教師が核候補に対して行う最初の指導は「個別的接近」である。
単に集団から切り離して個別指導するという意味ではない。
あえて指導といわず接近と呼ぶのは教育されるものとする者という関係より
生身の、あるいははだかの人間同士としての接触と言う点を重視するからである。
それはたんに肌と肌の触れあいという次元にとどまらず
愛情を媒介にしてはいるが相手の人格に直載に切り込み、意識に垂直に迫ることにより
全人格的に奮い立たせる」
かなり気味の悪い世界です。
同意!激しく同意!
日教組って一体・・・