すとりーとびう

随分騒がれたけど落ち着いたみたいですね。
まずこれ。

米国、特に西海岸に住んでいる人は自宅のプライベート空間とパブリックな空間の境目は、所有権的にも精神的にも公道と私有地の間にあると思います。というか、みなさんの感覚では公道に面した自分の庭のほうが公的な空間で、自分の庭をきれいにしていないとコミュニティの景観上よろしくないと思っていますよね?
ところが日本の都市部生活者は逆で、家の前の生活道路、いわゆる路地のほうが感覚的には自分の生活空間の一部、庭先なのです。日本の都市部では、家の前の公道を掃いたり、打ち水をしたり、雪かきをしたりするのが居住者のつとめとされています。下町を歩いているとよくわかるけれど、家の前の路地に鉢植えとかちょっとした物置とかをはみ出して置いてあるのもその感覚の表れです。
僕らはそういう路地を歩くときには、路地の周りの家のほうをじろじろ見つめることはしません。ちょっと横を向くと、文字通り鼻の先はだれかの生活空間なので、そういうところをのぞき込むのは失礼なことだという意識が働いていると思うんです。
日本人がアメリカに家を建てるときに、日本の感覚で家の周りに塀をめぐらせて周りからひんしゅくを買うことがあるそうですが、日本の都市部の感覚では逆に通りを歩く人が塀の中をのぞき込むとひんしゅくを買います。
もちろん、塀や垣根の隙間から中を覗こうと思えば覗けます。そういう行為は「垣間見」と言って、源氏物語の昔から、ちょっとはしたないこととされています。
この季節、なにかのはずみで、軒先で下着同然の格好で涼んでいるおじさんと目があったりします。そんなときも、その人が近所の風呂屋でのなじみとかだったら、ちょっと立ち話をするかもしれませんが、そうでもなければ会釈をするような格好でもしてそのまま目をそらし、お互いに見なかったことにする、というのが礼儀です。
「公道からの風景だから公開を前提としているはずだ」ではなくて、「公道を通る者はその鼻先の生活空間はのぞき込んではいけない」というのが、日本の都市生活者のモラルなんです。

生身の人間が路地から生活空間をじろじろ覗いているとやっかいなことになりそうなことは日本人なら直感的にわかるので、普通の人はそういうことをやりません。そのため、生活者側も路地から生活空間の様子が知れてしまうことに対してわりと無防備です。
ところが、ストリートビューを通して覗くのは、覗かれていることに気がつきませんから通報されることもありません。この非対称性が別の問題を引き起こします。
日本中の、いや、世界中の人が、ケーサツのお世話になるというリスクを負わずに、無防備な生活者の生活空間の様子を見ることができるということは、例えば侵入が簡単そうな構造の家屋を探したり、転売価値の高そうな自動車が公道に面した場所に駐車してある場所を探したりという犯罪のための下見を、誰もが通報されるリスクなしできるようになってしまった、ということです。
そりゃ、通りからじろじろ下見をする人がいれば通報されるはずだから、と安心して無防備に暮らしている我々が悪いのかもしれないけれど、この安心感が一方的に突然乱されるのは、どうにも納得がいきません。

この記事を海外に紹介したのがこちら。

それに対する反応もいくらか紹介してます。

これはよくある話だと思うけど、アメリカの人は、whole world spins around their axes (自分たち中心に世界が回っている?)と考えがちで、アメリカ風のプライバシーが世界全体のプライバシーになる思ってる。二三週間前にあるアメリカ人が、世界全体でプライバシーを自分たちのやり方で扱われるべきだと私の教えようとしてきた。つまり、パブリックな場所では何をしてもいい、特に思いのままに写真を撮っていいと考えているようだ。最悪なのは、彼らには自分たちが変わろうという意思が全くないことだ。

彼らは写真を撮る時に、その町と調整をすることもできた。それによって、他の問題も持ちこまれることもわかるけど、少なくとも生活空間においては、住人自身が問題ないと思えるような準備をできるようにすべきだ。

私の疑問=このサービスの展開に関してグーグルの日本法人は関与していたのだろうか?私は、日本語と英語を話す日本人で日本に住んでいるんだけど、我々の文化や習慣に照し合わせたら、これが絶対ダメってことは明々白々だ。私が思うに、このストリートビューの機能は完全に除去されるべきものだ。

いきなり導入しちゃったのはまずかったかね。

彼(=樋口氏)は、日本人は目と鼻の先に広がっている刺激的な光景を見ないようにするために、道を行くときもまっすぐ前だけ見ていると主張しながら、一方では世界中の人々がStreet Viewを使ってその禁じられた光景を見るものと仮定してかかっている。そんなものは問題ではない。日本だろうがどこだろうが、ほとんどの人にとって小さな路地のことなど単にどうでも良いからだ。彼が本当に恐れているのは、身近な日本人がのぞき見をすることではないのか(その場合、そういうことをする人たちは自分たちの文化を理解していないことになるが)。さもなくば、我々野蛮な外国人たちがネットを通してそれをすると言いたいのではないか。後者ならば同意することはできない。僕らの文化では、それは侮辱であり、樋口氏は謝罪すべきであると言えるかもしれない(彼のロジックを極端に受けとったとしたら)。

「ふつー見ない」ですか。

ここアメリカでも同じだよ。ひとんちの窓を写真に取るなんてことは失礼なことだ。単にグーグルが気にかけてないだけのことさ。

「ふつー撮らない」ですか。

meatspaceはサイバースペースと根本的に違うんだということを、この問題が気づかせてくる。ネットの中では、この手の問題に関して ROBOTS.TXT (訳注:Webサイトが検索エンジンに登録不可であることを伝える規約)という解決策を導き出してきた。そして、ウェブサイトではプライベートなものの方が例外だということにはみんな同意するだろう。所有者が(ROBOTS.TXTに)特記して初めて立ち入り禁止になる。グーグルはネットの企業であり、この世界をインターネットの延長線上にあるものとしてとらえているんじゃないかな。

しかし、リアルワールドはネットとは違う。そして、リアルワールドでは、ROBOTS.TXTのような規約は反転されるべきだ。どのデータが立入禁止かということを、人々がグーグルに伝える責任を負うのではなくて、グーグルの方が全ての人に対して、どのデータがパブリックなものかを確認すべきだ。グーグルの企業文化は、meatspaceにおける情報収集に関しては、全くの不適合なんだよ。

まぁ道に「ストリートビュー不可」って表示するわけにはね。先にあるのは「リアルワールド」の方だし。

私は日本に24年以上住んでおり、全面的に著者の懸念を理解する。しかしながら、自分の近所をざっと見た限りでは、近所の人たちの顔やナンバープレートは不鮮明になっている。きっちり路地まで記録して、個人のプライバシーには充分配慮している所を見て、グーグルは素晴しい仕事をしているという印象を受けた。

残念ながら、私にはストリートビューよりずっと気になることがある。それは、ほとんどの日本人が持ち歩いている高解像度のカメラの携帯、しかも、日々クオリティを増しつつある動画撮影機能つきの携帯だ。あえて言えば、近所の「おばちゃん」も、グーグルなんかとは比べものにならないプライバシーへの脅威である。

言われてみれば誰でもプライバシーの侵害になる写真取って「流せる」んだよな今この世の中。

私は日本に滞在したことがあるけど、ストリートビューが受け入れられないと断言する気にはならない。これを読んでいる人は、この手の「激しい怒り」について話半分で聞いていた方がいい。

Japanese as a whole aren't anywhere near as privacy crazy as this story or people's posts are making it out to be.

(総体としての日本人なんてものはいない?)

私は、生活道路を写真を撮りながら歩いたこともあるけど、警官を呼ぶといった拒否の対応は全く感じたことがない。反応は、ヨーロッパや北アメリカで普通に期待されることと同じだ。一番大きな問題は、おばさんたちに「この花を撮りなさいよ」と招かれることだ。

写真ぐらいおk。

これらの反論が文化中心主義者的な議論になってしまうことが、どうにも解せない。このテクノロジーとその潜在的な利用方法と不正な利用方法にうんざりしている日本人が表明している懸念について、同じように心配している人はアメリカにも(その他の国々でも)たくさんいると私は思う。そういう反応について「文化的」な違いがあるとしたら、(訳注:主張の中身ではなくて)それを提起する仕方だけだ。

アメリカでも心配してる人や反発して訴訟を起こした人はいるということで。
一方容認できるという意見の人。

路地からの視野が届く「エクステリア」には、プライベート的なものが顔を出すこともあるが、逆にいえば、それは「見られることを暗黙のうちに認めているプライベート部分」のはずである。どうしても見られたくないなら、外には出さないものだ。女性で下着を外に干さない人は多い。

ストリートビューに反対する意見は多いが、そういう人は、「実際にはこれだけのものを通りすがりの人たちから見られている」ということに無頓着すぎたのではないだろうか。ストリートビューによって、外部からの視線にはじめて気付いた(あるいは意識化した)のだ。その不快感なのではなかろうか。

グーグル・ストリートビューは、自動車に全方向撮影可能な撮影機材を取り付けて撮影したものだという。公道から車で入れる範囲の視野であるということは、言い換えれば、そこを歩く人は誰でも見られる風景だということである。

見るな、見ても見ていないように振る舞え、と要求するのか、それとも、見られていることを前提として自分が意識を変えるのか。この点において議論は分かれると思う。

「グーグルは、日本の街角では見て見ぬふりをしろ」という主張は、ブログが日本に広まり始めた2003年ごろに話題となった「儀礼的無関心」問題を彷彿とさせるものがある。自分のブログが多くの読者から読まれていることに自覚的ではなく、ごく少数の知人ぐらいしか読んでいないだろうと思っていた人がいた。そこへ多くの読者が殺到するようなリンクを張るのはいかがなものか。見ていても、見ていないふりをする、あるいはこっそりと眺めるだけにとどめておくべきではないか、という「儀礼的無関心」が必要ではないかという問題提起が行なわれた。儀礼的無関心とは、社会学者アーヴィン・ゴフマンのcivil inattention / civil indifferenceという概念だ。見知らぬ人に対してはつとめて無関心を装うことによって、余計な関わり合いが生じることを避けようとする現象である。

そのころのブログ界では、どちらかといえば「多くの人に読まれていることを前提としてブログを運営すべきであって、儀礼的無関心を働かせてリンクを遠慮する必要はない」という意見が優勢を占めたように思う。ウェブのシステム上、リンクされることを防ぐことはできない。ならば、リンクされること、読まれることを前提として行動せよ、という考え方だ。ただ、こういう考え方(「モヒカン族」的思考)がサバサバしすぎており、論理的にすぎて思いやりに欠けるといった印象を持つ人たちもいた。

樋口さんはストリートビューについて「ほっといてもらう権利」という言葉を使っている。ブログにおける儀礼的無関心の問題と、見事にシンクロしていると思う。

「見える場所にあるから見られる」ワケで。自分もこういう意見の方が理解しやすいかな。

ちなみに、自分がいつの間にか写っているかもしれないという問題は、「路地=生活空間」問題とは別である。つまり、「ここにいたことがある」という情報がプライベートに属する場合に、プライバシー権が侵害されるという問題だ。ラブホテル前のアベックが写っている写真を晒して喜んでいる人たちもいた。

これは生活空間だろうと公共空間だろうと関係ない。空間の問題ではない。「人」が写ることについての問題である。

ホテルの前でなければいいというわけではない。どこの街角であっても、妻子持ちの野球選手と女性アナウンサーが腕を組んで歩いている写真が出れば厄介なことになるだろう。つまり、場所の問題ではないのだ。

この点について、グーグル・ストリートビューは一定の配慮をしている。つまり、人間の顔と思われるものは自動的にカバーするようになっている。

なお、樋口さんのブログ記事のコメント欄に自動車のナンバープレートが写されている問題が挙げられていたが、これも場所の問題ではない。渋谷のど真ん中であっても、路地の裏でも、ナンバープレートが写っているとすれば問題である。

個人が特定できる情報は消す方向なんですね。

防犯上問題のある場所をネットにさらすことになるから問題だという意見が樋口さんによって提起されている。わたしはそれは間違っていると思う。

何より、ストリートビューに載ろうが載るまいが、こそ泥や空き巣どもはじっくり見ているのである。むしろ、「仮に見ていたとしても見ていないふりをしてください」と祈ってばかりいるのではなく、見られていることを前提としてしっかり防犯に取り組まねばならない。空き巣どもに見られればかえって侵入を断念させるような対策を取るべきなのであって、ストリートビューにぼんやりした写真が載るくらいで空き巣に狙われるような状況を放置しておく方が悪い。むしろ、警鐘として活用すべきだろう。

鍵は沢山付けた方が狙われません。危ないと思ったら対策しましょう。

アンケート取ってみたそうです。

「知らない」2割弱、「気にならない」4割、「気持ち悪い」4割という結果が出た。賛成と反対が2票差/300票でまさに「互角」、文字通りの「賛否両論」であることがわかる。どちらか一方にネット世論が偏っているわけではないと思われる。

意外と割れてた。

全国的に「気にならない」が圧倒的に優勢。ただし、「関東」ではほぼ互角(「気持ち悪い」が多め)、「近畿」でも「気持ち悪い」の比率がやや高い。つまり、首都圏・関西圏で反発が高めということになり、これは「都会の住人ほど反発が大きい」ということになるのかもしれない(すでにストリートビューが公開されている北海道では、その傾向は見られない――母集団は少ないが)。

都市部で反発が大きい感じ。隣の人と付き合わない環境だからねぇ。

日本人がプライバシーをかなり気にするようになったのは、戦後経済成長期以降(「団地」の発達、近所づきあいの希薄化)の時期からではないか。そして、2005年の個人情報保護法の成立とともに、一気に個人情報に対する考え方が過剰防衛的に変わってきていると思う。わたしは何もプライバシーは守らなくていいなどというつもりはないし、逆に自分の個人情報はきちんと管理できるべきだと思っているが、それだけに「どこまでが自分でコントロールできる個人情報なのか」ということを考える必要があると思う。

「外から見えるところに、見られて困るものをさらけ出さない」という最低限の「自己防衛」もせずに、「撮られた!世界に公開された!Google横暴!」と叫んでも仕方ない。プライバシーを誰かが守ってくれると期待するだけではだめなのである。

自分の身は自分で守りましょうと。

確かにストリートビューの目線はやや高い気がする。身長173センチのわたしの目線だと160センチ台に来るのだろうが、それよりは確かに高めだ。しかし、自分の見た光景とストリートビューの印象がそれほど変わらないのも事実だ(違うところをつとめて探すようにしたのだが、非常に難しかった)。普通の目線で見えないものが写り込んでいるというほどではないように思われる。

カメラは、車幅もあるので、塀際には寄っていない。人は(道にもよるが)塀際を歩ける。この違いによって、特に横向きの視野についてはストリートビューと実際の光景にあまり違いが感じられなくなっているように思った。

また、歩いて気付いたことがあった。外に見せること(外から見えること)を意識した窓際の風景が案外多いということだ。窓際で外に向けて人形を並べている家もある。衛星放送のパラボラアンテナには、通りから見えるようにロゴが描かれている。

カメラの高さ問題について、わたしは、今の高さでも、目線の高さから見た光景としてさほど違和感がないと思う。ただ、高さはできるだけ下げるのがいいだろう。車の屋根が写り込まない範囲でぎりぎり低くする方向で進めるべきだろうと思う。

まぁカーテンだって窓が覗けるから閉めるわけで、まったく人目を意識してないってことは無いわな。

わたしが実際に数キロ歩いて眺めてきた感想としては、「それほど違和感はない」というものである。ただし、当初から書いているとおり、「高さはできるだけ下げるのがいい」と考えている。しかし、塀の上から覗けてしまう庭先や外壁・ベランダ等の部分については、インテリアではなくエクステリアであるとわたしは考えている。したがって、塀の高さの問題ではないと思う。なお、高木氏の記事のブクマコメントで、「擁護派はスカートの中をのぞくことも容認するのか」というような意見が散見されたが、これこそ屁理屈である。少なくともわたしは、プライベートに属する「人間」についてはぼかすなどの対策が必要だと述べている。家の中(インテリア)も写すなと言っている。その辺を無視した極論は議論から排除すべきだろう。

塀の上から覗けるか。多分ちょっと背伸びしたら見えるぐらいだろう。必要な労力が小さい。頑張らなくても何食わぬ顔で覗ける範囲なら、見られて困るものは置くべきじゃないな。

それこそ、ブログやSNSだって犯罪に使われる可能性はゼロではない。じゃあブログは閉鎖か。SNSは出会い系として使われるから禁止か。そんなことはない。ストリートビューが防犯上問題だというのであれば、それが具体的にどの程度空き巣被害を高めるか、計量的に示す必要があろう。もちろん、それが防犯上のメリットとも比較考量する必要がある。そして、どのように改善すべきかという点が論じられるべきだろう。

そもそも、「気持ち悪い」という感情は、決して「こんなものがあれば、空き巣狙いに狙われる!」ということが理由ではなく、「自分のプライベートに属すると思っていたものがネットにさらされていて気持ち悪い」というところに起因するはずである。「犯罪に使われる可能性」という論点は、「気持ち悪さ」とは直結していない。したがって、前回のわたしのエントリーでも補記としてとどめた。ただ、わたしの論考の本文ではなく補記のこの部分に対して反応する人が多かったように思う。

道具は悪くない。けど道具を悪用できないようにする方法は考えた方が良い。グーグルストリートビューダガーナイフかトラックか。

ストリートビュー儀礼的無関心という都市のルールを一方的に破っているから気持ち悪い」という主張であれば、ああ、そういう人もいるんでしょうね、とわたしは理解する(が、同意はしない)。なぜなら、儀礼的無関心は「絶対的」なルールではなく、単にその場でトラブルを回避するための一方策にすぎないからである。逆にいえば、ストリートビューのような「知らぬが仏」を許さないシステムが多少の感情的軋轢を生むというのは、ある意味当然のことである。

しかし、それは絶対的悪ではない。見えているものを自覚させる装置としてのストリートビューに対して、好悪の感情は持ち得ても、善悪の基準ではかれるものではない。なぜなら、単に見えているものを可視化しているにすぎないからである。「それを可視化するのは困る」という人もいて当然だが、「すでに見えているものなのだから仕方ない」と考える人もいて当然なのだ。

儀礼的無関心って、もしかしていい年の女性がテレビに映るときキャッチライトで光当てまくってることに突っ込まないようなことですか?

もう一度言いますよ。「ストリートビューのカメラの高さは、出来る限り目の高さに近くなるように設定する方がいいだろう」「個人のプライバシーに属する、人の顔やナンバープレートについては、掲載されないようにすべきである」とわたしは最初から述べているし、それについて意見を変えることはない。ただ、「問題点があって気持ち悪いのだからストリートビューを全廃させろ」「グーグルを経済的に攻撃しろ」などという意見に与することは今後もありえない。

まぁ妥当な話というか。
カメラの高さとかはこちら。

どうも問題がある画像は見えなくなりつつあるようですね。削除されてる画像もあります。

Googleの撮影車がなぜこんなにも高い位置にカメラを設置しているかというのは、おそらく、低い位置では、車の屋根が視界を遮るために、画面を下に向けたときの写真に死角ができてしまうためだろう。しかし、対策は考えられる。たとえば、高い位置と低い位置にカメラを設置して、下向きの写真は上のカメラで撮り、横向きの写真は下のカメラで撮って、お得意の高度な情報処理技術で合成すれば、通行人視点の映像を死角なく生成できるのではないか。

先行して始まっていた米国では、これほどまでに狭い場所に入り込んでおらず、この角度が問題になることはなかったのだろう。それをそのまま日本に持ち込み、何が起きるのかを気にせず、対策をとらなかったため、こうなったのではないか。

なんつーか想定外の不具合で困ってるだけ?

相当狭い路地まで入ってるそうで。そりゃ撮影角度もおかしくなる罠。

「二輪の自動車以外の自動車通行止め」のマークがあるが、これは道路交通法上の規制を意味するのだろうか? それとも、単に「通り抜けできないような道ですよ」と言っているだけなのだろうか。

気になったので目白警察署に尋ねてみたところ、これは「標識」ではなく「看板」であり、道路交通法上の規制の効力は及ばないものとのことだ。ではどういう意味があるのかと尋ねたところ、「地域住民の要請でこのような看板を出すことがある」「部外者に入ってこられては迷惑になる場所や、実際に車が入り込んで動けなくなったような場所に出している」「区役所と協力してやっている」とのことだった。

法的に意味の無い表示とはいえ・・・入るかそこに。

通行人からの目隠しであろうか、通行人にはちょうど垂直となる位置に設置されており、日光や風を通すための斜めのスリットが開いている。これが、Googleストカーの撮影角度では、スリットを抜けて向こう側が透けてしまっている。

同様の状況は他にも無数にあるように思える。

まずいですなぁ。カメラの高さは2m以下ぐらいにしないとこういう問題が一杯でてきますね。
最後にこれ。

統一教会系団体のサービスフォーピースがなんかしらんがグーグルのお世話になっているそうで。嫌だなぁ。
ま、だから何だってことはないけど。